【一大会最多敗戦記録】一つのチェス大会で31敗した男、Nicholas Macleodの話 

  公式に行われた*1一つのチェス大会における最多敗戦記録は、1889年の第6回アメリカ・チェス・コングレスでNicholas Macleodが記録した「31敗」だと言われています。第6回アメリカ・チェス・コングレスについては棋譜をまとめた本が出版されており、現在ではGoogle Booksで全文を読むことが出来ます。

books.google.co.jp  この中に、大会の勝敗表も掲載されています。大会では20人のプレーヤーが2回戦総当たりで1人あたり38戦を戦いました。

f:id:dame_chess:20190315235917p:plain

赤で囲ったのがMacleodの戦績です。負けは「0」、引き分けは「½」、勝ちは「1」で示されます。「0」の数を数えると、Macleodは確かに31敗しています。38戦で6勝31敗1引き分け、負け越しは実に25です。

 

さて、31敗を喫したMacleodはどのような人物だったのでしょうか。

 

1.カナダの若き強豪

  Nicholas Macleodは1870年にカナダのケベック州で生まれました。*2

Macleodは10代の頃から優秀なチェスプレーヤーとして知られていたようです。1885年の地元紙には、15歳のMacleodがケベック・チェスクラブの大会で優勝したことが報じられています。*3

f:id:dame_chess:20190316235110p:plain

  1886年1888年にはカナダ・チェス協会が開いた全国大会でも優勝しました。*4

こちらは1888年の全国大会でプレーオフに進んだことを伝える記事です。*5

f:id:dame_chess:20190317000745p:plain

18歳にして二度のカナダ王者に輝いた俊英、それがMacleodだったのです。

 

2.第6回アメリカ・チェス・コングレス

  そして二度目のカナダ王者になった翌年の1889年、Macleodはニューヨークで開かれた第6回アメリカ・チェス・コングレスに参加することになるのです。改めて、成績表を見てましょう。

f:id:dame_chess:20190317003532p:plain

  実は、この第6回アメリカ・チェス・コングレスは当時の世界トップクラスの強豪が顔をそろえたハイレベルな大会でした。

  1位のTchigorin*6は定跡「Chigorin Defence」に名を残すロシアのプレーヤーで、同じ1889年にチェスの初代公認世界王者Wilhelm Stenitzと世界王者の称号をかけたタイトルマッチを戦っています。3位Gunsbergも後年Stenitzとタイトルマッチを戦ったプレーヤーです。4位に入っているイングランドBlackburneはその攻撃的なプレーから「黒き死」の異名を取った名手でした。そのほか、のちに全米王者となるShowalter、定跡「Bird Opening」にその名を残すBirdら参加者は何れも猛者ばかり。

  現代のように情報の流通も人の移動も活発ではなかった19世紀の話です。若きカナダ王者にとっては、初めて直面する異次元の世界だったことでしょう。

  また、この大会では特別なルールが用いられていました。2回戦総当たりの2巡目では、「引き分け」となった場合、1回だけ「指し直し」のゲームが行われたのです。強豪相手に引き分けに持ち込んでも、指し直しでもう一度戦わなければなりません。世界の頂点に近いプレーヤーに挑戦する立場だったMacleodにとっては厳しい条件です。

 

  1889年3月26日のニューヨーク・タイムズでは、Macleodは次のように評されています。当時のフランス王者、Taubenhausに敗れた翌日の記事です。*7

f:id:dame_chess:20190317101611p:plain

  「直感的なプレーヤーで書物に載った世界王者*8たちのゲームから学んでいない」「早い段階で駒を交換し始め、非常に素早く指す」とされています。直感を頼りに時間を使わず指し進め、あっさり負けてしまう若者。記事の執筆者にはそう映ったようです。

 

  この後も苦戦が続きますが、Macleodは苦しみながらも幾つかの勝利をものにしています。

  その勝利の一つは、Blackburneから得たものでした。BlackburneはMacleodに対し、序盤でポーンを二つ捨てる攻撃的定跡「ダニッシュ・ギャンビット」を採用。「格下」を攻め潰してしまおう、という意図だったようです。Blackburneは強く、Macleodの自陣は崩壊寸前まで追い込まれますが、辛くも生き延びます。最後には、Macleodが駒得を生かして勝ちの終盤に持ち込みました。Steinitzがまとめた大会の棋譜集では、このゲームの棋譜にこんな注釈がつけられています。

f:id:dame_chess:20190317110819p:plain

  「本調子ではないとき」という但し書きがついてはいますが、ゲーム後半のMacleodは自身が第一級のマスターにとって危険な対戦相手であることを証明した、と評されています。

 

  Macleodもカナダを代表するプレーヤーとして才気の片鱗は示したものの、力の差は否めませんでした。最終的に「6勝31敗1引き分け」という成績が記録され、後世に残っていくのです。

 

3.その後のMacleod

  Macleodはカナダに戻ってチェスを続けました。

  1892年、ケベック州に後の世界王者Emmanuel Laskerが来訪し、多面指しイベントを行いました。この多面指しに参加したMacleodは、参加中唯一の勝ちを記録しています。地元紙では、Macleodの勝利が棋譜付きで伝えられました。*9

f:id:dame_chess:20190317115251p:plain


  1896年、Macleodはアメリカのミネソタ州に移り住みます。*10

  ミネソタ時代のMacleodは、1901年にWesetern Chess Associationが主催した大会で優勝を飾っています。この大会は現在も続いているアメリカの権威ある大会「US Open」の前身となる大会でした。

  Macleodの優勝を報じる地元紙の記事です。*11

f:id:dame_chess:20190317122536p:plain

  Macleodは1903年ワシントン州スポケーンに移住します。*12

スポケーン・チェスクラブのウェブサイトによれば、Macleodは1910年と1911年に電信対局でスポーケン・チェスクラブの1番ボード*13を務めたそうです。*14

  1965年、Macleodはスポケーンにて死去しています。*15

 

 4.「31敗した大会」の位置づけ

  Macleodのチェス人生を見ていくと、31敗を喫した第6回アメリカ・チェス・コングレスはMacleodの競技者人生の中で最大の晴れ舞台であったように思えます。現代で言えば、Tata Steel ChessやGRENKE Chess Classicのような世界のトップ選手が集まる「スーパー・トーナメント」に参加したようなものです。*16

  ミネソタ時代に大会で優勝したMacleodを紹介する記事は、こんな具合です。*17

f:id:dame_chess:20190317141537p:plain

  カナダを代表して国際大会に出場して有名なマスターたちと戦い、イングランド王者Blackburneに勝ったことが記されています。*18記者はMacleodの経歴を語るにあたって、チェス・コングレスを達成の一つとして扱っています。

  残念ながら、チェス・コングレスについて語ったMacleod本人の言葉をみつけることはできなかったのですが、彼にとっても、チェス・コングレスは31敗した「屈辱」の記憶というよりも世界の偉大なマスターたちと競い合った「栄光」の記憶だったのではないでしょうか。

 

補:記録更新の可能性

  以下の二点の理由により、FIDEのレギュレーションで「Standard」に分類される長時間の試合を行う公式大会で「31敗」の記録が更新される可能性は低いのではなかと考えます。

a.大会の短縮

  31敗するには、まず31回試合をしなければなりません。第6回アメリカ・チェス・コングレスは20人のプレーヤーが2回戦総当たり合計38試合+指し直し局を戦いましたが、このような持ち時間の長い試合を多数戦う大規模大会は姿を消していきます。

  1953年にスイスのチューリヒで開かれたCandidate Tournament(挑戦者決定大会)が2回戦総当たり28ラウンド、その後の「インターゾーナル」と呼ばれる世界各地の上位者を集めて行う大会でも20ラウンド程度です。

  現代では、世界王者への挑戦者を決めるCandidates Tournamentですら2回戦総当たり14ラウンド、多くの大会は世界最高レベルの大会であっても多くて10ラウンド強です。長期間戦うクラブチームの対抗戦でも、私の知る範囲では30ラウンドに達する大会はありません。

  1局10分で済ませられるブリッツならともかく、片方のプレーヤーに最低90分+1手30秒加算を求められる「Standard」の公式戦で31戦以上を戦う大会は今後も復活しない可能性が高いように思います。

 

b.チェスの進化と引き分けの増加

  19世紀は「ロマンティック・チェス」と呼ばれる華やかなプレースタイルが全盛を迎えていました。駒の活動性を重視し、捨て駒を厭わずチェックメイトを目指して攻め倒す、そんなプレーが中心だったのです。自然、現代に比べて引き分けが少なく、勝ちか負けか決着が付くゲームが多くなります。

  Macleodがカナダで頭角を現した19世紀後半は、Steinitzが「ポジショナル・プレー」を提唱し「近代チェス」「科学的チェス」が始まったとされる時代です。派手な一撃ばかり狙うのではなく、一手ずつじっくりと駒の配置を調整し、自陣の弱点を消していく、そんなプレーが取り入れられるようになります。

  第6回アメリカ・チェス・コングレスの時点では、BlackburneやPollockらトッププレーヤーの中にも「ロマンティック・チェス」の気風を残したスタイルで戦うプレーヤーがいました。過渡期だったのですね。

  Steinitzの考えの優秀さは広く認められ、Steinitzを起点としてチェス理論が発達していきます。「ロマンティック・チェス」の時代に比べて無謀な捨て駒は減り、膠着状態になるゲームや、チェックメイトにならないまま駒が減った終盤を迎えるゲームが増えていきました。終盤の研究も進み、劣勢から「引き分けに持ち込む技術」も進歩しました。

  現代のトップレベルでは、半数以上が引き分けという大会も多くあります。

  プレーヤーのレベルによりますが、Macleodの時代に比べれば現代は引き分けるための技術が向上しているため、「31敗」のためのハードルは上がっていると言えるでしょう。

 

  ……技術の低いプレーヤーを集めて、記録更新のために公式戦を設定すれば記録更新は実現されるでしょうが、わざわざ31試合もの公式戦を行う時間、費用的コストを支払って酔狂な記録を作ろうとする人もいないと思います。*19

*1:実は19世紀には「公式戦」を認定する統括団体がなく、競技として体裁を整えて行う"serious game"(=のちの公式戦に相当)か"casual game"(=非公式戦に相当)かの区別は資料を見て後付けで行うしかない。第6回アメリカ・チェス・コングレスは記録の残り具合がよく、競技規則や参加者のレベルなどから判断して"serious game"として扱われている

*2:

http://chess.ca/node/262

*3:

http://collections.banq.qc.ca/retrieve/13483106#page=3

*4:

http://chess.ca/node/262

*5:

http://collections.banq.qc.ca/retrieve/13485776#page=4

*6:ロシア出身のため、本名はキリル文字。現代ではMikhail Chigorinとラテン文字転記されることが多い

*7:

https://archive.org/details/NYTimes-Mar-Apr-1889/page/n241

*8:当時「公認」の世界王者は歴史上Stenitzただ一人だったため、「世界の強豪たち」程度の意味と思われる。

*9:

http://collections.banq.qc.ca/retrieve/13533936#page=4

*10:

http://chess.ca/node/262

*11:

https://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn83045366/1901-08-19/ed-1/seq-9.pdf

*12:

http://chess.ca/node/262

*13:チェスで団体戦を行う際は、チーム内で「ボード順」を決める。1番ボードにはチーム最強のプレーヤーが配されることが多い。

*14:

https://spokanechessclub.org/club-info/history/

*15:

http://chess.ca/node/262

*16:「スーパー・トーナメント」についてはこちらの記事をどうぞ。

チェスの「プロ棋士」その3 チェスのプロが参加する棋戦の仕組み - dame_chess’s blog

*17:https://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn83045366/1901-08-19/ed-1/seq-9.pdf

*18:Sternitzとは戦っていないのでこの部分は記者のミス

*19:無気力試合を31回やるという手もなくはないんですが、そうして作った記録に価値があるかというと……