非実在ギャンビット

  「ギャンビット」とはチェスの序盤定跡の種別です。序盤の段階で自分の駒を捨てる代償に何らかの別の優位性の獲得を狙う定跡が「ギャンビット」に分類されます。

  キングス・ギャンビット、ダニッシュ・ギャンビット、ハロウィーン・ギャンビットなど様々な「ギャンビット」がありますが、「ギャンビット」の中には実際にチェス盤上で指されていない「ギャンビット」もあります。

 

1.ローガン=アスキス・ギャンビット

  ローガン=アスキス・ギャンビットはハリイ・ケメルマン著「九マイルは遠すぎる」に収録された短編小説「エンド・プレイ」に登場する架空の序盤定跡です。

  「九マイルは遠すぎる」は、いわゆる「安楽椅子探偵もの」の古典として知られます。探偵役のニッキィ・ウェルト教授が関係者からの聞き取りや現場の写真をもとに鮮やかに事件を解決していくのです。

  「エンド・プレイ」では、殺人事件の現場写真に写っていたチェス盤にローガン=アスキス・ギャンビットの局面が並べられており、チェスの盤駒が真相解明の手掛かりの一つとなります。

  ニッキィ教授の聞き手を担う語り手の「わたし」によると、ローガン=アスキス・ギャンビットはこんな定跡だそうです。

さし始めの手としては非常に危険率が高いんで、実戦にはほとんど使われない。しかし、僧正の位置が有利に進むところなど、ちょっと面白い手だ。

 2.フォン・グーム・ギャンビット

  フォン・グーム・ギャンビットはヴィクター・コントスキーの短編小説「必殺の新戦法」*1に登場する架空の序盤定跡です。若島正が編纂したチェス小説短編集「モーフィー時計の午前零時」に収録されています。

  長らく冴えないプレーヤーであったフォン・グームは、「必殺の新戦法」であるフォン・グーム・ギャンビットを引っ提げ、連勝街道を突き進みます。並みいるマスターをなぎ倒す「フォン・グーム・ギャンビット」に脅威を感じたチェスの強豪プレーヤーたちは、フォン・グーム・ギャンビットに対してある対策を講じることとなります。

  フォン・グーム・ギャンビットが脅威となる理由や対策の内容を明かすと重大なネタバレになってしまうのでこの場では明かせませんが、「必殺の新戦法」は荒唐無稽なチェスほら話として楽しく読める一遍となっています。

 

3.バールストン・ギャンビット

  バールストン・ギャンビットは物語に登場する架空定跡ではなく、推理小説で用いられる作劇上の技術を表す用語です。小説内のキャラクターが身元不明の遺体*2を作り出し、特定のキャラクターの死を偽装する行為のことを「バールストン・ギャンビット」と呼びます。

  「ギャンビット」に含まれる「駒を犠牲にする」という意を織り込んでいるという点で洒落ていますね。

 

4.シシリアン・ギャンビット

  「シシリアン・ディフェンス」は有名定跡の一つですが、シシリアン・ギャンビットは医療用語です。なんでも、抗不整脈薬の分類法に「シシリアン・ギャンビット」と呼ばれるものがあるそうです。

  

photo-pharmacy.com  門外漢には何が何やら……。

  名前の由来についてはこちらのウェブサイトに情報がありました。

シシリアン・ガンビット 新しい不整脈薬物治療剤のあり方

  元になったと思われる英文も見つかりました。  

www.ncbi.nlm.nih.gov  概要の一部を引用します。

The Queen's Gambit is an opening move in chess that provides a variety of aggressive options to the player electing it. This report represents a similar gambit (the Sicilian Gambit) on the part of a group of basic and clinical investigators who met in Taormina, Sicily to consider the classification of antiarrhythmic drugs.

  シチリア島で開かれた会議+クイーンズ・ギャンビットでシシリアン・ギャンビットになったようです。この名称を選んだ人々もチェス好きだったのでしょう。

 

 

  創作に架空のチェス定跡を登場させたり、新しい用語を作る時にチェス定跡用語を滑り込ませたりして、新たな非実在定跡を生み出していくのも面白いかもしれませんね。

*1:原題はVon Goom's Gambit

*2:首なし遺体、焼死体といったあたりが定番でしょうか