棋譜はみんなのもの チェス界の棋譜利用事情

  日本将棋連盟が、このような「お願い」を発表しました。

www.shogi.or.jp

公益社団法人日本将棋連盟と各社が主催する棋戦で作られる棋譜は両者の共通の財産であり、棋譜の無断使用は両者の財産を損なう恐れがあります。 商業的目的に供する場合など、私的利用の範囲を超えて棋譜(図面を含む)を使用される場合は、事前に下記フォーマットへご連絡をお願いいたします。

  将棋のプロ大会主催者がプロ大会で指された棋譜の利用を制約しようとしており、SNSや動画サイトではこの「お願い」をめぐって議論が起きています。

  議論の参考に、将棋に類似したマインドスポーツであるチェスの世界における棋譜の利用の在り方を紹介していきたいと思います。

 

1.棋譜は自由に使っていい

  「チェスの棋譜には著作権がない」ということを聞いたことのある方は多いかと思います。概ねその通りで、チェスというゲームのコミュニティにおいては、チェスの棋譜は単なる事実の記録にすぎず、自由に利用してよいとの理解が主流です。

  誰かに許可を取る必要はありませんし、もちろんお金を払う必要もありません。切り貼りしても構いません。SNSでも動画サイトでも、どんな場に掲載しても構いません。棋譜を使って商売をしてもOK。

  要するに「何でもあり」です。

 

2.棋譜利用の自由な世界で提供されるコンテンツ群

2-1.棋譜中継サイト

a.特徴

  進行中の大会の棋譜も自由に利用可能です。そのため、チェスの世界では世界各地の大会の棋譜を取得して中継を行う無料中継サイトが沢山あります。

  中継される大会のレベルは様々。FIDEレート2000未満の趣味で指すプレーヤーが中心の大会から、2700後半から2800クラスの世界最高峰の大会まで観戦できます。

  Follow ChessやChess Bombなど棋譜中継専門のサイトもあれば、Chess.comやChess24などチェス総合サイトが提供するサービスの一つとして棋譜中継を行っている場合もあります。それぞれの棋譜中継にコンピュータ解析の有無や動作の重さ、検索の利便性など特徴があり、ファンは好みのサイトを選んでチェス観戦を楽しむことが出来ます。

  それぞれの棋譜中継サイトは、広告収入や追加サービスに対する課金などを通じて収入を得ています。大会主催者やプレーヤーが棋譜中継から収入を得ることはありません。

b.インフラとしての棋譜中継サイト

  「棋譜中継サイトが他人の棋譜で儲けている」と感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、大手の棋譜中継サイトは最早現代チェス界に欠かすことのできない「インフラ」です。

  主催者が単独で棋譜中継の場を作らなくても、棋譜中継サイトに棋譜データを送るだけで、安定した高品質な棋譜中継を行うことができます。アクセスの多い棋譜中継サイトに棋譜を掲載してもらうことで、棋譜が多くの人の目に触れることも期待できます。

  大会の公式サイトに、棋譜中継サイトが埋め込まれていることもあります。

 

2-2.棋譜データベース

  これまで人類が残した膨大な数の棋譜は全て自由に利用できます。古いものでは16世紀、新しいものでは2019年の現在リアルタイムで進行中のものまで、勝手に使ってよいのです。ということで、過去に指された棋譜という棋譜を集めた無料データベースもチェスの世界には沢山あります。

  Chessgames、Chess-dbなど鑑賞、棋譜検索よりのものから、lichess Opening ExplorerやChess365など序盤研究向けのものまで提供されているデータベースは様々です。それぞれに特徴があり、ユーザーは好みのデータベースを選んで使うことができます。

  こちらはlichess.orgで提供されているデータベースの操作画面です。

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指し手別の勝率表示、過去の戦例、局面を指定しての検索と便利な機能が提供されています。

  収録ゲーム数は、無料のものであっても100万は下りません。名局集に収録されるような著名なゲームについては、全て無料で閲覧可能といってもよいと思います。

  無料データベースサイトは、棋譜中継サイト同様に広告料やユーザー課金*1でマネタイズしています。*2

  大量の無料データベース群に対し、有料データベースの販売を続けているのがChessbase社です。最新のMega Database 2019の収録局数は760万ゲーム。うち解説付きが7万2000ゲームです。価格は179.9ユーロとなっています。

  この大量のゲームをChessbase社が提供する高機能の棋譜管理ツール「Chessbase」上で使いこなすことによって、無料データベースにない価値を生み出します。高レベルのトーナメント・プレーヤーの多くがChessbaseを愛用しています。

 

  棋譜データベースの分野においても、大会の主催者や棋譜を残したプレーヤーに何らかの収益がもたらされることはありません。

 

2-3.棋譜解説、教材

  棋譜の利用が自由なので、世界各地のプレーヤーが勝手に最新大会の棋譜を解説します。棋譜を使って教材を作るのも自由です。オンラインにオフライン、電子に紙書籍と様々な手段がありますが、最近はウェブへの動画投稿が盛んです。

  注目を集める大会では、ものの一週間もしないうちに大量の解説動画が投稿されます。ロシアで開かれている大きな大会、FIDE World CupのNihal Sarin対Eltaj Safarli*3の動画を漁るとこんな感じですね。英語の解説が主流ですが、ポルトガル語ヒンディー語の動画もあります。

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  ゲームのプレー配信が行われるプラットフォーム、Twitchでも公式の配信と別に非公式の解説会が配信されています。

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  最近のトップレベルのチェス大会では、こうした非公式解説が珍しくなくなっています。チェスファンは、好みのコメンテーターを選んで解説を聞けます。

3.棋譜の自由とプロシーン

  将棋のプロ大会は、新聞社が大会運営資金を拠出し、対価としてプロ団体が新聞社に棋譜の独占利用権を与えるという「新聞棋戦」制度が柱となって運営されています。新聞社の提供した資金が、プロ棋士=トーナメント・プロに支払われる賞金、対局料の原資になっているのです。

  つまり、将棋のプロ大会は棋譜から得られる利潤を求めて運営される「興行」という扱いなのです。棋譜の自由流通は、この仕組みを脅かすものだと思われているわけですね。

  では新聞棋戦のないチェスの世界ではどういった形で「プロ」が成り立っているのでしょうか。

 

3-1.チェスは興行として成り立っていない

  残念ながら、チェスは野球やサッカーのような、多数の観衆に支えられた「スポーツ興行」としては成り立っていません。大会運営資金は主にスポンサーから得られる協賛金、大会参加者の支払うエントリーフィーに拠っています。*4

  スポンサーの出資目的も、チェス大会そのものから利潤を得ることではありません。大会スポンサーとして露出することによる宣伝効果、あるいは文化事業の出資者、パトロンとしてステータスを得ることがメインです。

  チェスのトーナメントプロはある程度まで採算を度外視した拠出、パトロネージによって成り立っているという部分は否定できないところです。自然、賞金や招待料のみで生計を立てる、純粋なトーナメントプロとして生きていける枠は競技人口に対して狭いものになります。*5

3-2.トーナメント・プロ専用の大会も少ない

  多くのチェス大会は、第一に一般プレーヤーのためのオープン大会として開催されます。

  このオープン大会の参加者として主催者が強いプレーヤーを招待したり、オープン大会と同時開催する形でトップ選手専用の招待制大会を開くことがあります。こうして、強いプレーヤーが主催者から招待料を受け取ったり、大会に勝って賞金を得たりすることで、トーナメント・プロとして稼げるわけです。

  一般プレーヤーのための「チェスの祝祭」であるオープン大会にメインゲストとしてプロの選手が招かれ、招待料や賞金を稼いでいるという感じですね。*6こうした、一般プレーヤー向けのチェス大会、イベントとプロチェス選手の関係は市民マラソンとプロランナーの関係に近しいのではないかと思います。

3-3.無数の競技プレーヤーという土台

  競技会でチェスをプレーしているだけで生計を立てられるトーナメント・プロはごく少数なので、チェスで生計を立てたいという人は多くの場合、レッスンを行ったり教材を売ったりして生計を立てることになります。レッスン・プロですね。こうした形態を成り立たせるためには、棋書を買い、コーチを雇ってでも強くなりたい、という熱意あるプレーヤーが必要です。

  また、チェス大会の主流であるオープン大会が多数の参加者を集める賑々しいイベントたりえるためには、「お金を払ってでも本格的な試合をしたい」という、これまた熱意あるプレーヤーが多数必要です。文化事業としてのチェス競技会に価値をもたらしているのも、これらプロたりえない多くの競技チェス選手たちです。

3-4.パトロンと「その他大勢」

  チェスのトーナメント・プロが成り立つために、現在の段階ではパトロン的な支援が必要だということは否定しがたい。一方で、競技チェスそのものを価値ある世界にしているのは無数のプレーヤーたちです。

  「その他大勢」の競技プレーヤーという巨大な土台と、パトロンからのサポートによって上澄み中の上澄みである「プロ」が存在できているのです。

  

*1:一部のサイトは課金で追加機能が利用できる

*2:なお、lichessは寄付やグッズ売り上げによって運営されています

*3:Ruy Lopez Breyerの好局です。チェスができる方はぜひ並べてみてください!

*4:2018年世界選手権の運営者Agonが有料の映像配信や棋譜中継の独占などを試みるなど、興業化を目指した動きはみられる

*5:2018年チェス世界選手権の主催者World Chessが調査したチェスの「賞金ランキング」を見てみるとよいでしょう。日本の将棋や囲碁に対してさほど賞金額が多いと言えないことがわかります。ユーロ表示なので換算してみてください。How Much Money Did Top Chess Players Earned in Prizes? (Hint: Not Much, Actuallyこの調査に含まれていない大会も多く、招待料や個人スポンサーも計算に入っていないので表中のプレーヤー全体が実際に「チェスで稼いだ金額」そのものは大幅な増加が見込まれますが、一年通じてメジャー大会に招待されるトップ中のトップ選手でもざっくり1000万円強の賞金を手にできれば上位10人相当です。

*6:もちろん、一般参加で賞金を勝ち取るのもOK

チェスの神童 その4 IM Vincent Keymerの2018年

  IM Vincent Keymerは2004年11月ドイツ生まれ。2018年1月時点では13歳でFIDEレート2408でした。

 

  Vincent Keymerの1年間の戦績をまとめた表がこちらです。

大会名 参加者数 シード順 持ち時間 形式 ゲーム数 Win Draw Lose TPR 順位 開催地
Open de Vandoeuvre 102   Classical オープン 9 4 3 2 2482 18 フランス
Gibraltar Masters 276 126 Classical オープン 10 4 1 5 2270 175 英領ジブラルタル
Bundesliga(Rd.9,10)     Classical 団体 2 1 0 1 2433   ドイツ
Bundesliga(Rd.11,12)     Classical 団体 2 0 2 0 2433   ドイツ
GRENKE Open A 787 99 Classical オープン 9 7 2 0   1 ドイツ
Bundesliga(Rd.13,14,15)     Classical 団体 3 1 2 0 2433   ドイツ
Lasker Memorial Blitz 285 93 Blitz オープン 16 10 3 3 2536 20 ドイツ
Bamberg Open 125 9 Classical オープン 7 4 3 0 2596 3 ドイツ
Bamberg Blitz 30 3 Blitz オープン 11 10 0 1 2480 2 ドイツ
European Youth Team     Classical 団体 7 4 2 1 2530   ドイツ
Xtracon Open 397 31 Classical オープン 10 6 3 1 2590 10 デンマーク
Sants Open 422 26 Classical オープン 10 6 2 2 2461 34 スペイン
Isle of Man 165 72 Classical オープン 9 4 2 3 2575 64 イギリス
Bundesliga(Rd.1,2)     Classical 団体 2 1 0 1     ドイツ
Bundesliga(Rd.3,4)     Classical 団体 2 1 1 7     ドイツ
Sunway Stiges   29 Classical オープン 10 5 2 3 2453 35

スペイン

 

・「シード順」は大会参加選手をレーティング順に並べた際、上から数えた順位です。
・持ち時間の「Classical」は長時間のゲーム、「Rapid」、「Blitz」は早指しにあたります。国際チェス連盟(FIDE)はこの三種類のレーティングを別々に計算しています。
・「TPR」はトーナメント・パフォーマンス・レーティングの略で、チェス選手の大会成績を示す指標です。

 

 1.神童は忙しい

  同年代のトッププレーヤーの一人であるKeymerは、2018年の一年間を通じてClassicalのゲームを92ゲーム戦いました。Classicalのゲームは概ね1日1ゲームですから、1年のうち3ヶ月は「チェスの試合の日」ということになります。

  この年代のトップレベルのプレーヤーには、殆ど学校に通わず事実上プロ選手として活動するプレーヤーもいますが、Keymerは、学校とチェス選手の活動を両立しているそうです。*1

  学業にチェスに、神童Keymerは忙しい日々を過ごしているようです。

 

2.大人に混じって戦う

  Keymerの主戦場は、スイス式のオープン大会とドイツ国内最高峰のリーグ戦、ブンデスリーガです。

  オープン大会では、一般のプレーヤーとして大会にエントリーします。参加者は年齢も棋力も様々。時には2600後半~2700のレーティングを持つ強豪GMと公式戦で戦うこともあります。2018年にKeymerが参加した大会の中では、Gibraltar MastersとIsle of Manが特にハイレベルでしたね。

  ブンデスリーガは、世界でもトップレベルのリーグ戦です。KeymerはSF Deizisauの主力選手の一人としてプレーしています。

 

3.賞金を貰う

  昨年のKeymerの実績の中で、最も際立っているのがGRENKE Openでの優勝です。最終ラウンドでは、黒番でハンガリー最強のプレーヤーであるGM Richard Rapportに勝利を収めました。

  この優勝により、Keymerは賞金15,000ユーロと翌年開催されるスーパートーナメント、GRENKE Chess Classic*2への出場権を獲得しました。

 

4.コーチ

  Keymerは世界選手権タイトルマッチ出場経験を持つトッププレーヤー、GM Peter Lekoの指導を受けています。Lekoとの縁はブンデスリーガでの同じチームで戦ったところから始まり、世界ジュニア前の短期指導を経て継続的関係になったのだそうです。*3

  インタビューに応じるLeko&Keymer師弟の映像です。

www.youtube.com

5.スポンサー

  コーチを雇う費用や遠征費を賄うため、KeymerはGRENKE社から金銭的支援を受けています。*4GRENKE社はGRENKE Chess Classicと併催のオープン大会を主催している企業でもあります。

 胸にGRENKE社のロゴが入っていますね。

 

6.GMノーム

  他の多くのプレーヤーと同様に、Keymerもグランドマスターの称号獲得を目指しています。GM称号を獲得するには、大会で一定レベル以上の成績を収めて「GMノーム」を3つ獲得する必要があります。

  2018年のKeymerは、優勝したGRENKE Openとデンマークで開かれたXtracon Openでノームを獲得。あとノーム一つでGMというところまで漕ぎつけています。

 

7.将来

  Keymerは2019年も順調に実績を積み上げており、2019年8月期のレーティングは2513となっています。自力で出場権を勝ち取ったGRENKE Chess Classicでは、世界的プレーヤーのAronianとSvidlerに引き分け、ドイツの先輩GM Meierに勝利を収めました。遅くとも10代のうちにGMを取るでしょう。

  競技チェスが盛んで、チェス大国のロシアに次ぐFIDE称号保有者数を誇るドイツですが、Naidistch*5アゼルバイジャンに転籍してのち、レート2700を超える世界レベルのトッププレーヤーいません。

   Keymerにはドイツを代表して世界と戦う、そんなトッププレーヤーへの成長が期待されています。

*1:

https://www.forbesdach.com/artikel/kleiner-grosser-meister.html

 

*2:毎年ドイツで開催され、世界トップ10クラスのプレーヤーが参加する

*3:

https://en.chessbase.com/post/with-peter-everything-is-great-fun-an-interview-with-vincent-keymer

*4:

https://en.chessbase.com/post/with-peter-everything-is-great-fun-an-interview-with-vincent-keymer

*5:ドイツ生まれではなく、ラトビアからの転籍プレーヤー。なお、現在ドイツ国内1位のNiipeanuも生まれはルーマニアの転籍プレーヤー。

GM Igors Rausisによるチート行為(ソフト指し)について

話題のチート(ソフト指し)スキャンダルについて軽くまとめます。

 

1.ストラスブールで起こったこと

  2019年7月12日、フランスのストラスブールにおいて開催されていたチェス大会「ストラスブール・オープン」において、参加者の一人であるGM Igors Rausisが使用していたトイレ個室内から携帯電話が発見されました。携帯電話が発見された個室を使っていたのはRausisのみで、Rausis本人も携帯電話が自身のものであることを認める宣言書に署名しました。

  Rausisは携帯電話の発見以降、試合出場をとりやめています。

*1

  英国のタブロイド紙、Daily Mailはトイレ個室内で携帯電話を使用するRausisの写真を公開しました。

 

www.dailymail.co.uk

 2.GM Igors Rausisについて

2-1.プロフィール

  GM Igors Rausisは1961年生まれの58歳。長くラトビア籍のプレーヤーとして活動していましたが、現在はチェコ籍のプレーヤーです。FIDEレーティングは2019年7月期の最新レーティングで2686、世界ランクは53位でした。

  チェス指導者としても活動しており、コーチとしてバングラディシュ代表の指導に当たっていたこともあります。*2

  また、Rausisはアービター(審判)資格も保有しており、複数の大会でアービターを務めていました。*3

ratings.fide.com

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2-2.50代でのレーティングの伸び

  最近、Rausisは年を取ってから急激にレーティングを伸ばしたプレーヤーとして注目されていました。Chessbaseの2019年7月期レーティングのリポート記事でも、名前が挙がっています。*4

  FIDEの公式サイトでは各プレーヤーのレーティングの推移がグラフ化されており、2003年以降のGM Rausisのレーティング推移を確認できます。*5

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 2013年以降レーティングを伸ばしており、特に2019年に入ってから顕著な伸びを示していることがわかります。

  「2700Chess」というウェブサイト*6を使って作成した40代以上で世界ランクのトップ100入りしているプレーヤーのリストがこちらです。

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  元世界王者のAnand、Kramnik、Topalov。タイトルマッチで挑戦者となったGelfand、Kamsky。スーパーGMとして、彼らと覇を競ったShirov、Ivanchuk、Adams。AlamsiやNisipeanu、Sadlerもキャリアハイでは世界トップ20、30で戦っていた往年のトップ選手です。

  Rausisの棋歴は、他の40代以上トップ100選手たちに比べると大きく劣ります。*7囲碁・将棋で言えば、かつてタイトル争いに加わっていた有力棋士の間に無名の棋士がポツンと一人いるような感覚です。*8

  しかもRausisの年齢(58歳)はトップ100プレーヤー中最高齢。その次に年長のGelfandから7歳も離れています。40歳を過ぎると加齢に伴って棋力を落としていくレーヤーが大半の中、キャリアハイを更新していくRausisが目を引いたのは自然なことでしょう。

 

3.称賛と疑惑、そして摘発へ

  Rausisの「活躍」に対して、称賛の声もありました。あるIMのツイートです。

 こちらはRedditから。www.reddit.com  一方、Rausisの特異なパフォーマンスに対し、疑念を抱いた人々もいました。

   Rausisのチート摘発後にFIDEフェアプレー委員会のYuri Garret氏がFacebookに投稿した文章によれば、FIDEフェアプレー委員会はRausisのチートを疑い、調査を行っていたそうです。

Fide anti-cheating procedures work best in team.

The Fair Play Commission has been closely following a player for months thank to Prof. Regan’s excellent statistical insights. Then we finally get a chance: a good arbiter does the right thing. He calls the Chairman of the Arbiters Commission for advice when he understands something is wrong in his tournament.*9

  文中に登場するRegan教授は、棋譜からチートの疑いの濃いプレーを検出する手法を研究しており、Regan教授によるチート検出プログラムはチェス・オリンピアードでも実際に使用されています。Rausisの調査にも、Regan教授の知見が用いられたようです。*10*11

  そして、ストラスブール・オープンのアービターの協力のもと、マークしていたプレーヤーRausisを「現行犯逮捕」したというわけです。

 

4.今後

  過去の不正行為者と同様に、FIDE倫理委員会での審議を経てRausisに何らかの処分が下されることになると思われます。過去のFIDEによる処分では、チート行為の事実が認定されたプレーヤーであっても有期の資格停止処分とされ、公式戦に復帰しています。*12

  今回のRausisのケースでFIDEから「永久追放」処分が下されるのかどうか、という点は注目されるでしょう。

  また、FIDEフェアプレー委員会のGarret氏はFacebookへの投稿の中で次のようにコメント。

The fight has just begun and we will pursue anyone who attempts at our integrity.

*13

 FIDE役員のGM Emil SutovuskyもFacebookでRausisの摘発は「始まりに過ぎない」と語っており*14、Rausisを皮切りに、FIDE主導のチート摘発が続いていく可能性も示唆されています。

 

補:400点差ルール

   FIDEが採用している現行のレーティング規定には、対戦者間に400点以上のレーティング差がある場合、400点ちょうどの差であると仮定してレーティング計算を行うという規則があります。

  GM John Nunnによれば、FIDEレート保有者が拡大し、大きくレートの離れた下位者と対戦したGMが「勝ってもレーティングが下がる」状況に直面するようになった1980年前後、「350点差ルール」としてレート計算の際に対戦相手のレートをかさ上げする規則が導入されたそうです。*15

  GM Rausisは、参加者のレートが低い大会に続けて参加し、「400点差ルール」の補正対象となるレートの低い相手との対戦で小数点以下のレーティングを積み上げていました。

  7月期のレーティング計算対象になったゲームの一部を見てみましょう。*16

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対戦相手のレーティング欄に青いアスタリスクのついたゲームが「400点差ルール」の補正対象です。殆どのゲームが対象になっています。

  「400点差ルール」も今後見直しの対象になるかもしれません。

 

*1:ここまで

GM Igors Rausis (58) Under Investigation Of Cheating - Chess.com

を情報源としました。

*2:

GM Igors Rausis, rated 2686, caught cheating with a mobile phone - ChessBase India

*3:

Rausis, Igors FIDE Arbiter History - Chief and Deputy Arbiters in Events

*4:

July ratings: Goryachkina vaults to world #3 | ChessBase

*5:

https://ratings.fide.com/id.phtml?event=11600098

*6:

Live Chess Ratings - 2700chess.com

*7:2013年以降のレーティング上昇を除くと、Rausisのキャリアハイは1993年7月期に記録した世界ランク85位。olimpbaseより FIDE rating history :: Rausis, Igor

*8:なお、AnandやSvidler、Topalovは今もFIDE GPに参戦して挑戦権争いに加わっています。

*9:

Yuri Garrett - Fide anti-cheating procedures work best in... | Facebook

*10:

Anti-Cheating

*11:Regan教授のチート検出手法については、ブログ「コンピュータ将棋基礎情報研究所」が日本語で詳しく紹介しています。

チェスの不正解析 1:Regan教授曰く : コンピュータ将棋基礎情報研究所

*12:第39回チェス・オリンピアードでチート行為を行ったフランス代表選手、GM Sebastian Feller。処分が明けた後は公式戦に復帰しており、今年5月のフランスリーグにも参加している。

https://ratings.fide.com/individual_calculations.phtml?idnumber=634654&rating_period=2019-06-01

*13:

Yuri Garrett - Fide anti-cheating procedures work best in... | Facebook

*14:

https://chess24.com/en/read/news/gm-igors-rausis-allegedly-caught-cheating Facebook投稿の英訳

*15:

https://en.chessbase.com/post/elo-oddities-the-tortoise-and-the-hare GM Li Chaoがスリランカの大会に参加した際、このルールが問題になった。なお、Li Chaoはスリランカの大会に参加した時点でも十分実績のある世界トップレベルのプレーヤーであり、レート稼ぎのために小規模大会を転戦していたわけではない

*16:

https://ratings.fide.com/individual_calculations.phtml?idnumber=11600098&rating_period=2019-07-01

チェスのプロ棋士 その5 プロ・チェスプレーヤーと引退

  昨年、将棋の加藤一二三九段が長い現役生活に幕を下ろしました。加藤九段の引退は順位戦C級2組からの降格と、竜王戦の敗退により決定したもので、以降日本将棋連盟が主催するプロ棋戦への出場資格は失われます。なお、加藤九段は日本将棋連盟の正会員、棋士の地位を保持するため、アマチュアプレーヤーとして活動することもありません。

  では、そもそもプロとアマの境界すら曖昧なチェス界の「引退」制度はどうなっているのでしょうか。

 

1.チェス競技者に「引退」はない!?

  チェスの世界はプロとアマの区分が曖昧です。一般の競技者の中で、結果的にチェスで金を稼げている人がプロです。チェスで飯を食っていようがいまいが、競技者としての扱いは同じです。つまり、過去にどんな実績があっても、どれほど年を取っても、力が落ちても、自分の意思で試合に出続ける限りチェス競技者としては現役なのです。

  ですので、「生涯現役」を貫くマスターも多くいます。かつて世界選手権タイトルマッチを戦ったVictor Korchnoiは老いてなお現役プレーヤーとして戦い続けました。脳梗塞で倒れたあとの復帰戦では、車椅子姿で対局会場に現れました。

chess-news.ru  GM Vitaly Tseshkovsky*1やIM Emory Tate*2のように、大会中に倒れてそのまま帰らぬ人となるマスターもいます。

 

2.競技プロからチェスコーチ、トレーナーへの転身

  最もポピュラーな選択肢が、チェスの指導者に転身するルートです。身体スポーツでもよくありますよね。

  そもそも、職業的なチェスプレーヤーの中でも賞金、大会の出場料、スポンサー料といった「競技者としてプレーそのものに対する報酬」で食べていけるプレーヤーは一握りのエリート層だけ。大抵の「チェスのプロ」たちは競技生活の傍らコーチングや著述で糧を得ています。加齢による体力、棋力の低下に伴って、競技を中心にしているプロたちも少しずつ指導者業に軸足を移していくといった感じですかね。

  パラグアイGM Axel BachmannやオーストラリアのGM Max Illingworthのようにはっきりした「競技チェス引退宣言」を出すプレーヤーもいますが*3、競技生活を続けるマスターのほうが多数派ではないかと思います。*4

  現役時代から、「引退後」を見越してチェス学校を開くGMもいます。中国の四川省成都では、オリンピアード優勝メンバーのGM李超GM王玥がチェス学校を営んでいます。

www.cygjxq.com

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2014年に立ち上げ、今では市内五か所に教室を構えているそうです。

3.別の道を歩む者たち

  チェスのプロには地位や収入の保障がありません。中々に不安定な職業ですし、苛烈な競争に対して稼ぎが良いというわけでもありません。*5ですので、グランドマスター級の棋力を持っていても若いうちに競技中心の生活にピリオドを打ち、別の分野で職を得るプレーヤーが沢山います。*6

  有名どころでは、かつてチェスの全米選手権で2位に入った経済学者のKenneth Rogoff氏、95年のタイトルマッチで後の世界王者Anandの研究パートナーを務め、その後金融界に進んだPatrick Wolff氏の名前が挙げられるでしょうか。

  なお、別の職業を持っていてもチェス競技者として活動を続けることはできます。GM級の棋力を持つチェスの世界の「セミプロ」、「アマ強豪」たちについてはこちらの記事で扱いました。

dame-chess.hatenablog.com

4.いつ戻ってきてもいい

  一度「引退」を宣言しても、何年ブランクがあっても、戻って来たければいつでも復帰できます。競技者としてプレーする意思さえあれば、いつでもチェス競技者に戻ることができます。

  2017年には、2005年に引退を宣言していたKasparovが5日間限定の「現役復帰」を果たし、注目されました。

www.afpbb.com   競技生活をやめて司書になっていたGM James Tarjanが30年の時を経て復帰し、復帰2年後に元世界王者のKramnikに勝利、という出来事もありましたね。

en.chessbase.com

   競技チェス界の扉は、いつでも大きく開け放たれているのです!

 

*1:

http://chess-news.ru/en/node/5385

*2:

https://www.chess.com/news/view/emory-tate-1958-2015-7615

*3:Bachmannの引退宣言

http://www.chessdom.com/gm-axel-bachmann-retires-as-a-professional-chess-player/

 Illingworthの引退宣言

https://www.chess.com/blog/Illingworth/announcing-my-retirement-from-competitive-chess

*4:統計がないのでわからない。

*5:少なくとも、サッカーやバスケットボールなど人気のあるフィジカル・スポーツのトップレベルと比べて

*6:先進国では、そうした非プロのプレーヤーのほうが多数派かもしれません

チェスのグランドマスターたちもゲーマーみたいにスポンサーロゴ入りの服を着るし、なんならもっとラフな恰好で試合をしますよ、というお話

  こんなツイートが話題になっています。

   このツイートに対する反応もあります。

   反応を読んでいくと、どうも元ツイートの方も反応している方々も「チェスの人」はスポンサーロゴのないフォーマルな恰好で試合に出るのが標準だと思っているようなんですね。

……おかしい。

チェスのグランドマスターGM)たちはもっと個性的な服装で試合をしているんですよ!?ということで、チェスGMたちのお洋服について語っていこうと思います。

 

1.チェスGMとスポンサーロゴ

  チェスのトーナメント・プロはプロ団体からお給料をもらっているわけではなく、それぞれ単独で活動する一匹狼です。ですので、個人単位でスポンサーと契約して活動費を調達するのはごく普通のことです。*1

  スポンサーをつけているプレーヤーがスポンサーロゴ入りの服を着て試合をするのも日常です。例えば現チェス世界王者のMagnus Carlsen

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 袖と右胸にロゴが入っていますね。

世界トップ10に定着しているオランダのGM Anish Giri。

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 右胸の「optivar」がGiriの個人スポンサーです。

もっとラフな服装の例として、12歳でGMになった天才少年Praggnanandhaa。

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 「RAMCO」がスポンサーロゴです。

 

2.チェスGMとユニフォーム(クラブ編)

  チェスにも団体戦がありまして、団体戦に参加する時はチェスのGMたちもお揃いのユニフォームで試合をしたりします。

  欧州クラブ杯の様子です。

 
 
 
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 向かって左から、世界王者Magnus CarlsenイングランドGM David Howell、スウェーデンGM Nils Grandeliusです。いずれも世界トップ100に入る一流のグランドマスターです。

  もう一例、チェスのドイツ一部リーグブンデスリーガ)で優勝したSG Solingenチームを写した一枚。一人着てない人*2がいますが、置いときましょう。

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クラブチームの例はこんなものです。

3.チェスGMとユニフォーム(国家代表編)

  チェス選手も国を代表して戦うことがあり、そんなときには代表チームのユニフォームを着て戦います。

  2017年、World Cupという世界大会に参加したポーランド代表のメンバーです。

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 左胸についているのがポーランド・チェス協会のエンブレム、右胸についているのが代表チームのスポンサーロゴです。

   「チェスはスポーツ」という考え方に影響されてか、スポーツウェア型のユニフォームを採用する例も多くあります。2017年の世界ユース・オリンピアードで対戦したイラン代表チームとインド代表チームの様子です。*3

www.youtube.comただのジャージみたいなユニフォームですね。

4.チェスGMとTシャツ

  チェスの世界はドレスコードのゆるい大会が多いためラフな格好で登場するGMもいます。Tシャツもありです。

  Saint Louis Rapid & Blitzという早指しの大会に登場したフランス最強のGM、Maxime Vachier-Lagraveの服装がこちらです。

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 ただのTシャツですね。

  アニメTシャツを着るGMもいます。

dame-chess.hatenablog.com  普段は服装に拘るタイプのグランドマスターが突如ラフなTシャツスタイルを採用し、話題を呼んだこともあります。2017年のChess World Cup三回戦、Matlakovとのプレーオフに猫Tシャツで登場したLevon Aronianです。

5 Levon Aronian Final8-001

 本人曰く、大会開催地に持ってきた服の量が少なく、猫Tシャツ含め少ない選択肢から選ばざるを得なかったのだそうです。*4

 

4.服装と、チェス文化

  震源のツイートに立ち返って、チェス界の服装とチェスの文化、カルチャーについてざっくりと語ってみようかと思います。

  ここまで見てきたように、チェスの世界はGMであってもカッチリとしたフォーマルな恰好をしない例が少なくありません。服装規定を設けている大会はありますが、非常にゆるい規定になっているの実情です。*5つまり「服なんて割とどうでもいい」というのがチェス界の服装に対する姿勢なのです。

  チェスの世界では、年齢、性別、人種、民族、棋力を問わず、すべてのプレーヤーが「FIDEレーティング」という同じものさしで評価されます。盤上で繰り広げられるチェスという競技、ゲームこそが最も重要で、他のものは夾雑物にすぎない、そんな文化が服装への態度からにじみ出ている……とはいえないでしょうか。

*1:尤も、まとまった額のスポンサーマネーを得られるプレーヤーはほんの一握りですが。

*2:ハンガリーのエース、GM Richard Rapport

*3:16歳以下の大会ながら、Praggnanandhaa、Nihal Sarin、Alireza Firouzjaという将来世界王者の座を争うと目されるGM称号保有者たちが写っています。

*4:

https://en.chessbase.com/post/fide-world-cup-2017-aronian-and-ivanchuk-set-up-round-five-clash

*5:レベルの高い大会で、ドレスコードがあっても、要求されるのはビジネスカジュアル程度のフォーマルさですね

将棋で記録自動化の試みが始まるらしいので、便乗してチェスの記録係事情と自動記録を語ってみる

  将棋の棋譜を自動で記録するシステムが開発されたそうです。記録係不足の問題は以前から指摘されていましたが、自動化という形で解決が図られるようですね。

jp.ricoh.com ということで、便乗してチェスの記録事情について語っていきたいと思います。

 

1.記録係などいない!

  チェスに記録係はいません。チェスでは、プレーヤーが自分で記録を取ります。これは公式の競技規則「Laws of Chess」で決まっています。記録について定めているのは第8条「The recording of the moves」で、最初の項目はこうなっています。

8.1.1

In the course of play each player is required to record his own moves and those of his opponent in the correct manner, move after move, as clearly and legibly as possible, in the algebraic notation (Appendix C), on the ‘scoresheet’ prescribed for the competition.

これは初めて公式戦に出場するアマチュアプレーヤーも、全世界のチェスプレーヤーの頂点に君臨する世界王者でも同じです。全てのプレーヤーにとって、棋譜の記録は義務です。

実際に世界王者が棋譜を取りながらプレーしている様子です。左のジャケットを着たプレーヤーが、現チェス世界王者Magnus Carlsenです。

www.youtube.com

  早指しの場合や持ち時間が少なくなった場合には、アービター(審判員)及び補助者、あるいは電気的手段によって記録が行われます。これも競技規則に規定があります。*1

   一部例外はありますが「自分で記録を取ることができるのならば、自分で記録を取りなさい」というのがチェスの世界の基本方針です。

 

2.自動記録装置

  流石に、チェスでも早指しでは自分で記録を取ることは求められません。このようなときに威力を発揮するのが電子チェスボードです。電子チェスボードの盤駒には電子チップが埋め込まれ、全自動で指し手を記録していきます。

  指し手は「PGN」と呼ばれる世界共通のファイル形式で保存され、盤面の変化は棋譜中継サイトや映像中継の局面図に即時反映されます。

  実際の「世界ブリッツ」の中継画面です。

www.youtube.com  チェスの世界ではDGT社の製品「e-Board」シリーズが普及しており、大きな大会で使用される電子ボードは概ねDGT社の製品になっています。同社のチェスクロックと連動できる点も大きいですね。

 

3.画像認識による記録

  リコー社が将棋連盟のために開発したのは電子ボードではなく、画像認識による記録システムです。

  実は、チェスでも画像認識による記録システムが開発されています。2015年、「Chess Vision」という会社がスマートフォンのカメラの映像から盤面を認識して棋譜を取るアプリケーションを開発し、売り込もうとしていました。

www.youtube.comそして、実際にACP Mastersというトップクラスのプレーヤーが参加する大会で使用されました。

  しかし、この「Chess Vision」は全く普及せず、現在は公式サイト*2

も消滅しています。先行して普及した電子ボードの壁は厚かったということなのでしょうか。

 

4.秒読みや時間切れの判定

  記録係の無人化を目指すという一方に対し、将棋ファンからは記録係が行っていた「秒読み」や、着手完了、時間切れの判定に影響が出るのではないか、という声も出ていました。将棋の記録係は棋譜の記録だけでなくタイムキーパーの役目も担っていますからね。

  元々記録係がいないチェスの世界では、プレーヤーが自分で時計を止めます。時計を止めた瞬間が着手完了のときです。初めて試合をするマチュアから世界王者まで同じです。

  全部競技規則に書いてあります。「Laws of Chess」第6条、「The chessclock」を読みましょう。

6.2.1

During the game each player, having made his move on the chessboard, shall stop his own clock and start his opponent’s clock (that is to say, he shall press his clock). This “completes” the move.

  もちろん、秒読みもありません。記録係もタイムキーパーもいませんからね。秒読みがないため、持ち時間のルールを勘違いしていた世界王者がうっかり時間切れで負けてしまったこともあります。

www.chess.comこちらは、実際に大会で元世界王者が時間切れ負けした瞬間です。9分20秒あたりからご覧ください。

www.youtube.com右の眼鏡のプレーヤーが元世界王者Vladimir Kramnik。対戦相手のひげ面のプレーヤー、Hikaru Nakamuraが時計を指して、時間切れを指摘します。その後、スーツ姿の人物が呼ばれます。これがおそらくアービターです。

   

  なお、時計の故障などイレギュラーな自体や異議申し立てはアービターが対処します。

*1:持ち時間が少なくなった場合の記録に関する規定はLaws of Chess 8.4から8.5.3、早指しの場合はA.2

*2:

http://www.chessvi.com/

立てなくても座れなくてもチェスはできるし、FIDEマスターにだってなれるのだという話

  ポーランドにLukasz Nowakというチェスプレーヤーがいます。

1.ワルシャワのチェスプレーヤー

  Lukasz Nowakは1997年生まれ、ポーランド籍です。祖父に手ほどきを受けてチェスを始め、5年後初めて大会に出場しました。ナイドルフ国際チェス祭*1です*2

   初めての大会でトロフィーとメダルを貰ったNowak少年は、サッカークラブである「ポロニア・ワルシャワ」傘下のチェスクラブでコーチの指導を受けることになりました。*3

  成長したNowakはレーティング2300を突破し、FIDEマスターの称号を取得します。2017年には世界ジュニア選手権*4に参加。前半は1勝4敗と崩れましたが、後半は立て直して11戦中6ポイントを獲得しました。*5

   2019年6月現在、Nowakのレーティングは2267。*6

IMノーム大会に参加するなど精力的な活動を続けています。*7

2.筋疾患

  FM Lukasz Nowakは筋疾患のため、立って歩くことも椅子に座ることもできません。試合風景はこんな具合です。

   国際チェス連盟の定めた公式ルールでは、競技上必要な動作が困難な場合、プレーヤーに介助者をつけることが認められています。*8

着手に関する条項はこちら。

4.9

If a player is unable to move the pieces, an assistant, who shall be acceptable to the arbiter, may be provided by the player to perform this operation.

 時計の操作についてはこの条文。

6.2.6

If a player is unable to use the clock, an assistant, who must be acceptable to the arbiter, may be provided by the player to perform this operation. His clock shall be adjusted by the arbiter in an equitable way. This adjustment of the clock shall not apply to the clock of a player with a disability.

記録についての同様の項目があります。

 8.1.6

If a player is unable to keep score, an assistant, who must be acceptable to the arbiter, may be provided by the player to write the moves. His clock shall be adjusted by the arbiter in an equitable way. This adjustment of the clock shall not apply to a player with a disability.

FM Nowakが参加した障碍者チェスの世界大会のレポートにこの大会でプレーするNowakの写真がありますが、記録用紙を前に置いて同じテーブルに座っている介助者らしき方が写っています。*9

かくして、FM Lukasz Nowakら障碍を持つプレーヤーも合理的な配慮のもと、一般の一プレーヤーとして競技会に参加することが出来るのです。