将棋で記録自動化の試みが始まるらしいので、便乗してチェスの記録係事情と自動記録を語ってみる

  将棋の棋譜を自動で記録するシステムが開発されたそうです。記録係不足の問題は以前から指摘されていましたが、自動化という形で解決が図られるようですね。

jp.ricoh.com

www3.nhk.or.jp

  ということで、便乗してチェスの記録事情について語っていきたいと思います。

 

1.記録係などいない!

  チェスに記録係はいません。チェスでは、プレーヤーが自分で記録を取ります。これは公式の競技規則「Laws of Chess」で決まっています。記録について定めているのは第8条「The recording of the moves」で、最初の項目はこうなっています。

8.1.1

In the course of play each player is required to record his own moves and those of his opponent in the correct manner, move after move, as clearly and legibly as possible, in the algebraic notation (Appendix C), on the ‘scoresheet’ prescribed for the competition.

これは初めて公式戦に出場するアマチュアプレーヤーも、全世界のチェスプレーヤーの頂点に君臨する世界王者でも同じです。全てのプレーヤーにとって、棋譜の記録は義務です。

実際に世界王者が棋譜を取りながらプレーしている様子です。左のジャケットを着たプレーヤーが、現チェス世界王者Magnus Carlsenです。

www.youtube.com

  早指しの場合や持ち時間が少なくなった場合には、アービター(審判員)及び補助者、あるいは電気的手段によって記録が行われます。これも競技規則に規定があります。*1

   一部例外はありますが「自分で記録を取ることができるのならば、自分で記録を取りなさい」というのがチェスの世界の基本方針です。

 

2.自動記録装置

  流石に、チェスでも早指しでは自分で記録を取ることは求められません。このようなときに威力を発揮するのが電子チェスボードです。電子チェスボードの盤駒には電子チップが埋め込まれ、全自動で指し手を記録していきます。

  指し手は「PGN」と呼ばれる世界共通のファイル形式で保存され、盤面の変化は棋譜中継サイトや映像中継の局面図に即時反映されます。

  実際の「世界ブリッツ」の中継画面です。

www.youtube.com  チェスの世界ではDGT社の製品「e-Board」シリーズが普及しており、大きな大会で使用される電子ボードは概ねDGT社の製品になっています。同社のチェスクロックと連動できる点も大きいですね。

 

3.画像認識による記録

  リコー社が将棋連盟のために開発したのは電子ボードではなく、画像認識による記録システムです。

  実は、チェスでも画像認識による記録システムが開発されています。2015年、「Chess Vision」という会社がスマートフォンのカメラの映像から盤面を認識して棋譜を取るアプリケーションを開発し、売り込もうとしていました。

www.youtube.comそして、実際にACP Mastersというトップクラスのプレーヤーが参加する大会で使用されました。

  しかし、この「Chess Vision」は全く普及せず、現在は公式サイト*2

も消滅しています。先行して普及した電子ボードの壁は厚かったということなのでしょうか。

 

4.秒読みや時間切れの判定

  記録係の無人化を目指すという一方に対し、将棋ファンからは記録係が行っていた「秒読み」や、着手完了、時間切れの判定に影響が出るのではないか、という声も出ていました。将棋の記録係は棋譜の記録だけでなくタイムキーパーの役目も担っていますからね。

  元々記録係がいないチェスの世界では、プレーヤーが自分で時計を止めます。時計を止めた瞬間が着手完了のときです。初めて試合をするマチュアから世界王者まで同じです。

  全部競技規則に書いてあります。「Laws of Chess」第6条、「The chessclock」を読みましょう。

6.2.1

During the game each player, having made his move on the chessboard, shall stop his own clock and start his opponent’s clock (that is to say, he shall press his clock). This “completes” the move.

  もちろん、秒読みもありません。記録係もタイムキーパーもいませんからね。秒読みがないため、持ち時間のルールを勘違いしていた世界王者がうっかり時間切れで負けてしまったこともあります。

www.chess.comこちらは、実際に大会で元世界王者が時間切れ負けした瞬間です。9分20秒あたりからご覧ください。

www.youtube.com右の眼鏡のプレーヤーが元世界王者Vladimir Kramnik。対戦相手のひげ面のプレーヤー、Hikaru Nakamuraが時計を指して、時間切れを指摘します。その後、スーツ姿の人物が呼ばれます。これがおそらくアービターです。

   

  なお、時計の故障などイレギュラーな自体や異議申し立てはアービターが対処します。

*1:持ち時間が少なくなった場合の記録に関する規定はLaws of Chess 8.4から8.5.3、早指しの場合はA.2

*2:

http://www.chessvi.com/

立てなくても座れなくてもチェスはできるし、FIDEマスターにだってなれるのだという話

  ポーランドにLukasz Nowakというチェスプレーヤーがいます。

1.ワルシャワのチェスプレーヤー

  Lukasz Nowakは1997年生まれ、ポーランド籍です。祖父に手ほどきを受けてチェスを始め、5年後初めて大会に出場しました。ナイドルフ国際チェス祭*1です*2

   初めての大会でトロフィーとメダルを貰ったNowak少年は、サッカークラブである「ポロニア・ワルシャワ」傘下のチェスクラブでコーチの指導を受けることになりました。*3

  成長したNowakはレーティング2300を突破し、FIDEマスターの称号を取得します。2017年には世界ジュニア選手権*4に参加。前半は1勝4敗と崩れましたが、その立て直して11戦中6ポイントを獲得しました。*5

   2019年6月現在、Nowakのレーティングは2267。*6

IMノーム大会に参加するなど精力的な活動を続けています。*7

2.筋疾患

  FM Lukasz Nowakは筋疾患のため、立って歩くことも椅子に座ることもできません。試合風景はこんな具合です。

   国際チェス連盟の定めた公式ルールでは、競技上必要な動作が困難な場合、プレーヤーに介助者をつけることが認められています。*8

着手に関する条項はこちら。

4.9

If a player is unable to move the pieces, an assistant, who shall be acceptable to the arbiter, may be provided by the player to perform this operation.

 時計の操作についてはこの条文。

6.2.6

If a player is unable to use the clock, an assistant, who must be acceptable to the arbiter, may be provided by the player to perform this operation. His clock shall be adjusted by the arbiter in an equitable way. This adjustment of the clock shall not apply to the clock of a player with a disability.

記録についての同様の項目があります。

 8.1.6

If a player is unable to keep score, an assistant, who must be acceptable to the arbiter, may be provided by the player to write the moves. His clock shall be adjusted by the arbiter in an equitable way. This adjustment of the clock shall not apply to a player with a disability.

FM Nowakが参加した障碍者チェスの世界大会のレポートにこの大会でプレーするNowakの写真がありますが、記録用紙を前に置いて同じテーブルに座っている介助者らしき方が写っています。*9

かくして、FM Lukasz Nowakら障碍を持つプレーヤーも合理的な配慮のもと、一般の一プレーヤーとして競技会に参加することが出来るのです。

チェスの「プロ棋士」その4 グランドマスター王皓(Wang Hao)の2018年シーズン

  プロ制度がないチェスの世界で、トーナメント・プロたちはどのような選手生活を送っているのでしょうか。一流のトーナメント・プロの例として、中国のグランドマスター、王皓(Wang Hao)の2018年の戦いぶりを見ていきたいと思います。
  王皓は1987年生まれ。2018年1月期のレーティングは2711、世界ランク37位です。そして、冴えカノジャージを着て戦います。

dame-chess.hatenablog.com

王皓の2018年の参加大会を一覧にしてまとめた表がこちらです。

 

大会名 参加者数 シード順 持ち時間 形式 ゲーム数 Win Draw Lose TPR 順位 開催地
Czech Extraliga(Rd.5,6)     Classical 団体 2 1 1 0 2693   チェコ
Gibraltar Masters 276 10 Classical オープン 9 5 4 1 2710 13 英領ジブラルタル
Czech Extraliga(Rd.7,8)     Classical 団体 2 1 1 0 2693   チェコ
HD Bank 133 2 Classical オープン 9 5 3 1 2646 5 ベトナム
GRENKE Open A 787 3 Classical オープン 9 5 4 0   15 ドイツ
Sharjah Masters 118 1 Classical オープン 9 6 2 1 2774 3 UAE
Longtou Cup 79 1 Classical オープン 9 6 3 0 2703 1 中国
China Rapid 28 1 Rapid 招待 9 6 1 2 2694 3 中国
China Blitz 28 3 Blitz 招待 9 6 2 1 2730 2 中国
Abu Dhabi Chess 158 4 Classical オープン 9 5 3 1 2726 6 UAE
Malaysian Open 153 1 Classical オープン 9 7 2 0 2788 1 マレーシア
European Club Cup     Classical 団体 6 2 3 1 2652   ギリシャ
Chess.com Isle of Man 165 12 Classical オープン 9 4 5 0 2820 6 イギリス
Asian Continental 64 1 Classical オープン 9 4 3 2 2566 17 フィリピン
World Rapid 206 7 Rapid オープン 15 5 9 1 2772 19 ロシア
World Blitz 202 10 Blitz オープン 21 8 6 7 2669 69 ロシア

 

・「シード順」は大会参加選手をレーティング順に並べた際、上から数えた順位です。
・持ち時間の「Classical」は長時間のゲーム、「Rapid」、「Blitz」は早指しにあたります。国際チェス連盟(FIDE)はこの三種類のレーティングを別々に計算しています。
・エントリー資格が限定されている大会も「オープン」として扱いました。
・「TPR」はトーナメント・パフォーマンス・レーティングの略で、チェス選手の大会成績を示す指標です。単純な勝率と異なり、パフォーマンス・レーティングは勝敗に加えて対戦相手の平均レートも含めて計算されます。
・「TPR」が2500であれば、「レーティング2500のプレーヤーに期待される程度の成績であった」という意味になります。

・「TPR」の数値は全てChessresultsに記載されたもので、Chessresultsに記載がなかったものについては略しています。*1
・「順位」はイベント終了時の個人順位です。クラブ戦は表記しません。

 

 

1.賞金稼ぎ

  王皓はオープン大会を中心に活動しています。オープン大会の場合、王皓のような世界有数のプレーヤーであっても競技面での特別待遇はありません。集まった参加者の一人として、優勝を争うことになります。

  それなりの金額の賞金が提供され、一部のマスターに対する招待料が出るような格の高いオープン大会であれば、参加者が百人を超えることはざらです。百人を超える選手と横一線で戦い、賞金獲得を目指す。それがチェスのトーナメント・プロとしての王皓の日常です。

 

2.外国人傭兵

  表で「団体」に分類されている大会はともにクラブチームの対抗戦です。Czech Extraligaはチェコ一部リーグ、European Club Cupはクラブの欧州選手権です。王皓は中国に拠点を置く中国籍プレーヤーなので、どちらの大会でもチームにとっては「外国人助っ人」です。

  王皓は結果を求められる「傭兵」でもあるのです。

 

3.高いパフォーマンス

3-1.TPR2700+

  2018年の王皓のレーティングはFIDEのスタンダードで2700台前半なので、Classicalの大会でTPR2700を超えてくれば概ね「期待されるレーティング並みの成績であった」と言えるでしょうか。

  王皓はGibraltar Masters、Sharjah Masters、Longtou Cup、Abu Dhabi、Malaysian Open、Chess.com Isle of Manと参加したオープン大会7つでTPR2700+を記録しています。一流プレーヤーとして、相応しい成績を残していますね。

3-2.GMノーム水準

  チェスの世界でグランドマスターの称号得るためには、大会で好成績を残してグランドマスター・ノーム(GMノーム)を取得する必要があります。取得の基準の一つが「TPRで2650を超える」というものなのですが、王皓は当たり前のようにノーム水準を超えて来ます。

  GM取得を目指すプレーヤーの多くは、ノーム取得に苦労します。しかし、王皓レベルのプレーヤーともなるとGMノーム基準のクリアは「よくあること」でしかないのです。

 

4.世界を旅する

  2018年の王皓は海外9か国を転戦しました。近年の中国はプロリーグとして甲級リーグが整備され、賞金の高い国内オープン大会も増えつつあるので、国家代表入りしていない現代中国のプレーヤーとしては多めでしょうか。

   チェスを始めたころの王皓は、チェスの先生から「良いチェス選手は外国を旅行できるぞ」と言われたそうです。*2

世界的プレーヤーに成長した現在、先生の言葉通り世界を飛び回る生活を送っています。

 

5.沢山の公式戦

  王皓は2018年の1年間でClassicalの公式戦91ゲームをこなしました。早指しのRapidは24ゲーム、Blitzは30ゲームです。単純なゲーム数で比べると、将棋のプロ棋士の年間対局数に比べてかなり多くなっています。*3  

  将棋と違って敗退するとゲーム数が減るノックアウト方式の大会がなく、基本的にスイス式で一大会当たり10ゲーム弱が確定している点が大きく影響したのでしょうね。

 

まとめ

  チェスの腕一本で世界を旅する賞金稼ぎにして傭兵。一流の競技チェス選手のそんな姿が浮かび上がってきますね。

  ただ、旅も愉快なことばかりではありません。一つのゲームで賞金のケタが変わり、チェス選手との命とも言えるレートが増減するストレスにも晒されます。自由気ままではありますが、不安定で将来の見通しは立ちません。

  ボヘミアンな暮らしと、厳しい勝負の世界を「楽しい」と思える人こそ「プロの競技チェス選手」に向いていると言えそうです。

*1:対戦相手のレーティングと獲得ポイントがわかれば計算できるけど、手計算は面倒なのでサボった。ごめんなさい

*2:

https://en.chessbase.com/post/wang-hao-profile-of-a-chess-prodigy-1-2

*3:

https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2018_ranking.html プロ将棋は50局でほぼトップ10水準。ただ、チェスのオープン大会の序盤はかなりレートの低い相手との対戦になるし、大会終盤は合意の上での早期ドローも発生しがちなので単純比較はできない。

チェスのトッププレーヤーと高等教育

  囲碁の井山五冠は中学卒業後、学校には通わず囲碁一本で生活しています。一方、一力遼八段は大学に進学し、学生生活を送りながらプロ棋士として戦っています。チェスのトップ選手の進学事情も、バラエティに富んでいます。

 

2.進学しないGMたち

  将来世界のトップレベルで争うであろう有望なジュニアプレーヤーたちは、年間100戦近い公式戦をこなして実戦経験を積み、レーティングを上げていきます。海外遠征もあります。自然、学校に通って勉強することは難しくなってきます

  また、有望なジュニアプレーヤーたちは10代でグランドマスターの称号を獲得し、更にレートを上げていきます。スポンサーがつき、多面指しイベントで報酬を受け取り、大会から招待され、勝って賞金を稼ぎます。彼らは10代で既にプロ選手なのです。

  普通に学業に取り組むことが難しく、ある程度プロとしてやっていける目途が立つプレーヤーたちは、進学せずにチェス一本に絞ることが珍しくありません。

  現世界王者のMagnus Carlsen、世界ランク2位のFabiano Caruana中等教育を途中離脱してチェス一本に絞っています。

  GM Nigel Short*1は、16歳で教育課程から離脱した時のことを振り返って、こう語っています。

I never thought of university for a moment. As a chess player, it would have been a waste of time.*2

  「大学なんて時間の無駄」これも一つの考え方ですね。

 

2.体育大学で学位を取る

  中東欧を中心とした旧共産圏では、チェスがスポーツの一種目として定着しており、体育大学がアスリートとしてチェスプレーヤーを受け入れています。

  現代のトッププレーヤーでは、アルメニア体育大学を卒業したLevon Aronian*3北京体育大学に進学している余泱漪(Yu Yangyi)*4、リヴィフ体育大学を卒業したMzychuk姉妹*5あたりがよく知られているところでしょうか。

 

3.チェスを使って一般大学に進学する

   アメリでは、一部の大学がチェス奨学生を募集しています。中でも、GM Susan Polgarが運営するWebster大学の「SPICE」や、テキサス工科大ダラス校の奨学生コースが有名です。

www.webster.edu

www.depts.ttu.edu

  各大学は様々な国からチェス奨学生を受け入れており、チェスを使ってアメリカの大学で学ぶ機会を得ることができるのです。例えばベトナム第1位のGM Le Quan LiemはSPICEの一員としてWebster大学に入り、2018年に卒業しました。

  中国では、スポーツの成績優秀者が推薦入学のような形で名門大学に進める制度があります。この制度を利用し、現世界ランク3位の丁立人(Ding Liren)は北京大学*6、現ジュニア世界ランク1位の韦奕(Wei Yi)は清華大学*7に進学しています。*8

 

4.普通に一般大学へ進学する

  特にチェスの実績を利用することなく、一般の学生に混じって大学へ進むトップレベルのプレーヤーもいます。現代でよく知られているのは、スイス連邦工科大学ローザンヌ校の学士課程で数学を専攻したMaxime Vachier- Lagrave*9チェコの名門カレル大学で哲学を専攻したDavid Navara*10あたりでしょうか。

 

5.チェス選手業の不安定さと進学

  チェスには、地位や収入を保証してくれる「プロ制度」がありません。一般のプレーヤーの海の中で、「チェスで稼いでいる例外的な存在」が「プロ」ということになります。競争は激しく、加齢による衰えからも逃れられません。制度的な保障がないため、プロのチェスプレーヤーは、トッププレーヤーであっても非常に不安定な状況に置かれます。

  チェス以外の選択肢を確保しておくために、進学するのは自然な選択と言えるでしょう。イングランドLuke Mcshane*11のように、プロとしてやっていける実力を持っていても一般の大学に進み、チェスと異なる業界へ就職するプレーヤーもいます。

*1:1993年の世界選手権タイトルマッチでKasparovに挑戦した往年のトッププレーヤー。50歳を過ぎた現在はFIDE副会長職の傍ら、レート2600を超える棋力を保ってプレーヤーとしても活動を続けている

*2:

https://www.independent.co.uk/life-style/interview-even-madonna-cant-beat-nigel-nigel-short-is-just-huge-in-iceland-yet-here-chess-colleagues-1453646.html

*3:アルメニア1位のGM。世界王者への挑戦者を決める大会に何度も出場している

*4:中国第2位のGM

*5:姉妹揃って女子チェス界のトッププレーヤー

*6:

https://en.chessbase.com/post/who-is-ding-liren

*7:参考記事:

http://www.xinhuanet.com/politics/2019-03/12/c_1210080130.htm

*8:丁立人は法学、韦奕は経済・経営を専攻

*9:フランス第1位のプレーヤー。世界ランクでトップ10を維持している

*10:チェコ第1位のプレーヤー。長く2700+のレーティングを保っている

*11:世界ユース10歳以下の部優勝、16歳でGM称号獲得。オクスフォード大学ユニバーシティ・カレッジ卒、金融界へ進む

チェスが人生の全てではない、ということ チェス界の「アマ強豪」と「セミプロ」たち

  チェス界にはプロ資格やプロ制度がありません。

dame-chess.hatenablog.com

棋力に対して与えられる「グランドマスター」や「インターナショナル・マスター」の称号を持っていても、チェスを生業としないプレーヤーは少なくありません。そんなチェス界の著名な「アマ強豪」たちを紹介していきます。

 

1.サラリーマン

1-1.GM Jan Smeets

  オランダのグランドマスターJan Smeetsは2008年のオランダ選手権優勝者。生涯最高レートは2600台後半です。そんなSmeetsは、現在アムステルダム証券取引所に勤務しています。本人曰く、「7時に起きて、8時に職場へ向かい、7時に帰ってくる生活」だそうです。

www.youtube.com  普通にサラリーマンをやっているSmeetsが「チェスのグランドマスター」として戦う場はドイツで開催されているクラブ対抗戦、ブンデスリーガです。ブンデスリーガは長期開催のリーグ戦。Smeetsは強豪クラブSG Solingenのメンバーに登録されており、エントリーしたラウンドにだけ参加します。仕事とも両立しやすい競技生活です。

1-2.GM Tomi Nybäck

   フィンランド第一位のGMTomi Nybäckプログラマーです。2018年はゲーム会社でプログラマーをしながら、フィンランド代表としてチェス・オリンピアードを戦いました。

  NybäckもSmeetsと同様ブンデスリーガのチームに登録して競技生活を続けています。Nybäckの所属クラブはSV Werder Bremenです。

  NybäckのLinkedinのプロフィールページはこんな感じです。

f:id:dame_chess:20190327215054p:plain

  会社の名前と、ブンデスリーガの所属クラブ名が並んでいます。 

2.学者

2-1.GM Jan Michael Sprenger

  ドイツのGMJan Michael Sprengerのプレーヤーカードを見てみましょう。

「Dr.」がついていますね。GM Sprengerは博士号を取得しており、現在はトリノ大学の論理・言語・認知センターに所属する研究者です。彼の個人サイトがこちら。

Jan Sprenger -- Home

チェスへのささやかな言及もあります。

I am still a quite reasonable chess player and sometimes play (duplicate) bridge.

 2500近いレーティングとGMの称号を持ちながら「a quite reasonable」というのは控えめな表現ですね。

GM Sprengerもブンデスリーガに参戦しており、Schafreunde Berlin 1903の主力選手として戦っています。

 

2-2.他の学者GM

  現在もスコットランド第一位のプレーヤーであり続けているGM Jonathan Rowson、長くオーストラリア代表を務めたGM David Smerdonあたりが有名でしょうかね。

  ドイツのプレーヤーは登録名に「Dr.」や「Prof.」をつけているプレーヤーが多く、学者マスターを捕捉しやすくなっています。ブンデスリーガの参加者リストから学者を探すのも面白いかもしれません。

 

3.弁護士

  GMノーム二つを持つ*1アイルランド第一位のプレーヤー、IM Sam Collinsの本業は法廷弁護士(Barrister)です。法律家として登録されています。

www.lawlibrary.ie  Collinsは法律家にしてチェス競技者なのですが、同時にチェスの教本やレッスンビデオも作っています。

www.youtube.com  どうやって時間を作っているんでしょうね……。

 

4.政治家

  GM Viktorija Čmilytė-Nielsenリトアニアの女性プレーヤー。女性では数少ない、男性と同様の水準を満たしてGMになったプレーヤーです。リトアニア選手権では男性のグランドマスターを従えて優勝した経験も持ちます。

  現在のレーティングは2542、女子の世界ランクでトップ10相当です。

  そんなČmilytėのもう一つの顔は、リトアニア議会の議員として活動する政治家です。リトアニア議会公式サイトには議員としての彼女のプロフィールが掲載されています。

f:id:dame_chess:20190327213626p:plain

  流石に議員としての活動とチェスプレーヤーとして競技生活を並行で進めるのは難しいらしく、2018年は公式戦出場がありませんでしたが、今年3月女子ブンデスリーガで久々のFIDE公式戦を戦いました。4月に発表されるレーティングリストで、avtiveプレーヤーとして世界ランクに復帰するでしょう。

追記:「あなたはプロですか?」という問い

  ドイツのGM Georg Meierがインタビューを受ける映像です。GM Meierは2600を超えるレーティングを持ち、世界王者Carlsenや元世界王者Anandらと共にドイツで開催された招待制の賞金大会に出場していました。

www.youtube.com1分40秒頃、インタビューアが「あなたはまだプロ選手なんでしょうか、それともセミプロのような?」と質問します。日本の囲碁・将棋の世界では、インタビューアが棋士に「あなたはプロですか?」と質問をすることはまずあり得ません。

  Meierの答えは、現在は銀行に勤務して「普通の仕事」をもっているから、チェスに割く時間は自分をプロだと考えるプレーヤーとは比較にならない(ほど少ない)というものでした。 

 

  囲碁や将棋の世界では、プロとアマチュアの間にははっきりした一線が引かれます。白黒切り分ける世界です。

  しかし、チェスの世界では、プロとアマの間はグラデーションでつながっていて、境界ははっきりしません。競技に対する向き合い方は個人の自由なのです。  

*1:一定以上の高水準の大会で所定の成績を収めると、チェスのグランドマスターになるために必要な「GMノーム」の取得できる。正式なGM称号の獲得には、「GMノーム」3つの獲得が必要。

【2020年チェス世界選手権サイクル】2019 FIDE Grand Prix Series 大会形式&参加者発表

  世界王者Magnus Carlsenへの挑戦者を決めるCandidates Tournamentの出場権を争う年間大会、FIDE Grand Prix Seies(FIDE GP)の開催要項と参加者が発表されました。

www.fide.com

www.fide.com

詳細を見ていきましょう!

 

1.大会形式と賞金

1-1.通年シリーズ

  FIDE Grand Prix Seriesは年間にいくつかの大会を戦って総合順位を決定する、通年シリーズです。2019年シリーズでは、年間4つの大会が開かれます。各選手は、4大会中3大会に参加します。各大会の成績に応じてポイントが与えられ、ポイントを合計して総合順位が決定されます。

  早い話、フィギュアスケートのグランプリ・シリーズみたいなものですね。

  チェスでは年間総合順位の上位2人に、挑戦者決定戦であるCandidates Tournamentへの出場権が与えられます。Grand Prix Seriesは、世界王者へと通じる道なのです。

 

1-2.個別大会の形式

  各大会は、参加者16人によるシングル・エリミネーションノックアウト方式(勝ち抜き戦)で実施されます。各ラウンドごとの形式はまだ発表されていませんが、おそらくチェスのノックアウト方式で一般的に採用されている、徐々に持ち時間を短縮していくミニ・マッチ形式*1が採用されるものと思われます。

  過去に4回開催されたFIDE GPでは、12人による総当たり、あるいは18人によるスイス式が採用されていましたが、2019年シリーズでは早期の引き分け合意が多いことが問題視されていました。*2ノックアウト方式の採用は新たな試みで、決着を付けに行く激しい戦いの増加が期待されます。

 1-3.ポイントと賞典

各大会で与えられる賞金、シリーズポイントは以下の通りです。

成績 賞金(単位:ユーロ) ポイント
1回戦敗退 5,000 0
2回戦敗退 8,000 1
準決勝敗退 10,000 3
準優勝 14,000 5
優勝 24,000 8
(賞金総額) 130,000  

 

シリーズ総合成績に大して与えられる賞金は以下の通りです。

成績 賞金(単位:ユーロ)
10位 10,000
9位 10,000
8位 15,000
7位 20,000
6位 25,000
5位 30,000
4位 35,000
3位 40,000
2位 45,000
1位 50,000
(賞金総額) 280,000

 

 2.参加者

 

2-1.参加者リスト

  1月25日、FIDEは2019年FIDE GPの参加資格保有者リストを公開しました。

www.fide.com  この中から、FIDEのオファーを受けたプレーヤーに加え、主催者推薦を得たプレーヤー(ワイルドカード)がFIDE GPに参加します。大会別の参加者は次の通りです。

 

選手名 レーティング*3 モスクワ リガ ハンブルグ テルアビブ 備考
Mamedyarov 2812,17   アゼルバイジャン1位
Vachier-Lagrave 2783,83   フランス1位
Giri 2779,75   オランダ1位
Wesley So 2778,92    
Aronian 2773,08   アルメニア1位
Grischuk 2767,92    
Nakamura 2767,83   2018年Grand Chess Tour総合優勝
Karjakin 2766,08   2016年世界選手権マッチ挑戦者
Yu Yangyi 2761,42    
Nepomniachtchi 2758    
Svidler 2751,75    
Radjabov 2751,75    
Topalov 2744,58   元FIDE世界ランク1位
Jakovenko 2739,75    
Navara 2737,5   チェコ1位
Wojtaszek 2734,5    
Wei Yi 2733,92   ジュニア(20歳以下)世界1位
Duda 2733   ポーランド1位
Harikrishna 2732,92    
Vitiugov 2726,92    
Dubov 2703*4  

2018年世界ラピッド優勝

Wojtaszek以下は辞退者が出た後に繰り上がった選手です。また、Dubovはワイルドカードで参加が決まりました。

この他、イスラエルで開催される第4戦テルアビブのみ現地主催者の推薦枠があります。この枠の参加者は未定です。

 

2-2.招待を断ったプレーヤー

  Carlsen、Caruana、Ding Liren、Kramnik、Anandの5人がFIDEからの参加オファーを断りました。

  現役世界王者CarlsenとCanddates出場枠確保済みのCaruanaに関しては、Candidates出場権を取りに行く必要がないのでGPに参加しないのは自然なことです。Kramnikは既に引退を発表しているので、こちらもオファーを断ったのは当然の判断。

  Ding LirenとAnandに関しては理由がよくわからないですね。そろそろ50歳になるAnandは体力面を考慮したということなのかもしれませんが、Ding Lirenは年齢的にも指し盛り。断り理由はないように思えます。中国での大会と日程調整がうまくいかなかったのでしょうか……。 

*1:後日正式に発表されました。形式は次の通り:90分40手+30分(一手30秒加算)x2戦、決着が付かない場合25分+一手10秒加算x2戦、以下同様に10分+一手10秒加算x2戦、5分+一手3秒x2戦。これでも決着が付かない場合、「アルマゲドン」と呼ばれる特殊な形式の早指し一戦だけを行って勝者を決める

*2:2017年シリーズに参加したGM Jon Ludvug Hammerのブログより。Hammerはドローオファーの廃止を提言している。

https://www.chess.com/blog/SultanOfKings/an-insider-s-view-on-the-fide-grand-prix

*3:FIDEの発表に記載された数値

*4:2019年3月期の数値

【一大会最多敗戦記録】一つのチェス大会で31敗した男、Nicholas Macleodの話 

  公式に行われた*1一つのチェス大会における最多敗戦記録は、1889年の第6回アメリカ・チェス・コングレスでNicholas Macleodが記録した「31敗」だと言われています。第6回アメリカ・チェス・コングレスについては棋譜をまとめた本が出版されており、現在ではGoogle Booksで全文を読むことが出来ます。

books.google.co.jp  この中に、大会の勝敗表も掲載されています。大会では20人のプレーヤーが2回戦総当たりで1人あたり38戦を戦いました。

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赤で囲ったのがMacleodの戦績です。負けは「0」、引き分けは「½」、勝ちは「1」で示されます。「0」の数を数えると、Macleodは確かに31敗しています。38戦で6勝31敗1引き分け、負け越しは実に25です。

 

さて、31敗を喫したMacleodはどのような人物だったのでしょうか。

 

1.カナダの若き強豪

  Nicholas Macleodは1870年にカナダのケベック州で生まれました。*2

Macleodは10代の頃から優秀なチェスプレーヤーとして知られていたようです。1885年の地元紙には、15歳のMacleodがケベック・チェスクラブの大会で優勝したことが報じられています。*3

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  1886年1888年にはカナダ・チェス協会が開いた全国大会でも優勝しました。*4

こちらは1888年の全国大会でプレーオフに進んだことを伝える記事です。*5

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18歳にして二度のカナダ王者に輝いた俊英、それがMacleodだったのです。

 

2.第6回アメリカ・チェス・コングレス

  そして二度目のカナダ王者になった翌年の1889年、Macleodはニューヨークで開かれた第6回アメリカ・チェス・コングレスに参加することになるのです。改めて、成績表を見てましょう。

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  実は、この第6回アメリカ・チェス・コングレスは当時の世界トップクラスの強豪が顔をそろえたハイレベルな大会でした。

  1位のTchigorin*6は定跡「Chigorin Defence」に名を残すロシアのプレーヤーで、同じ1889年にチェスの初代公認世界王者Wilhelm Stenitzと世界王者の称号をかけたタイトルマッチを戦っています。3位Gunsbergも後年Stenitzとタイトルマッチを戦ったプレーヤーです。4位に入っているイングランドBlackburneはその攻撃的なプレーから「黒き死」の異名を取った名手でした。そのほか、のちに全米王者となるShowalter、定跡「Bird Opening」にその名を残すBirdら参加者は何れも猛者ばかり。

  現代のように情報の流通も人の移動も活発ではなかった19世紀の話です。若きカナダ王者にとっては、初めて直面する異次元の世界だったことでしょう。

  また、この大会では特別なルールが用いられていました。2回戦総当たりの2巡目では、「引き分け」となった場合、1回だけ「指し直し」のゲームが行われたのです。強豪相手に引き分けに持ち込んでも、指し直しでもう一度戦わなければなりません。世界の頂点に近いプレーヤーに挑戦する立場だったMacleodにとっては厳しい条件です。

 

  1889年3月26日のニューヨーク・タイムズでは、Macleodは次のように評されています。当時のフランス王者、Taubenhausに敗れた翌日の記事です。*7

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  「直感的なプレーヤーで書物に載った世界王者*8たちのゲームから学んでいない」「早い段階で駒を交換し始め、非常に素早く指す」とされています。直感を頼りに時間を使わず指し進め、あっさり負けてしまう若者。記事の執筆者にはそう映ったようです。

 

  この後も苦戦が続きますが、Macleodは苦しみながらも幾つかの勝利をものにしています。

  その勝利の一つは、Blackburneから得たものでした。BlackburneはMacleodに対し、序盤でポーンを二つ捨てる攻撃的定跡「ダニッシュ・ギャンビット」を採用。「格下」を攻め潰してしまおう、という意図だったようです。Blackburneは強く、Macleodの自陣は崩壊寸前まで追い込まれますが、辛くも生き延びます。最後には、Macleodが駒得を生かして勝ちの終盤に持ち込みました。Steinitzがまとめた大会の棋譜集では、このゲームの棋譜にこんな注釈がつけられています。

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  「本調子ではないとき」という但し書きがついてはいますが、ゲーム後半のMacleodは自身が第一級のマスターにとって危険な対戦相手であることを証明した、と評されています。

 

  Macleodもカナダを代表するプレーヤーとして才気の片鱗は示したものの、力の差は否めませんでした。最終的に「6勝31敗1引き分け」という成績が記録され、後世に残っていくのです。

 

3.その後のMacleod

  Macleodはカナダに戻ってチェスを続けました。

  1892年、ケベック州に後の世界王者Emmanuel Laskerが来訪し、多面指しイベントを行いました。この多面指しに参加したMacleodは、参加中唯一の勝ちを記録しています。地元紙では、Macleodの勝利が棋譜付きで伝えられました。*9

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  1896年、Macleodはアメリカのミネソタ州に移り住みます。*10

  ミネソタ時代のMacleodは、1901年にWesetern Chess Associationが主催した大会で優勝を飾っています。この大会は現在も続いているアメリカの権威ある大会「US Open」の前身となる大会でした。

  Macleodの優勝を報じる地元紙の記事です。*11

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  Macleodは1903年ワシントン州スポケーンに移住します。*12

スポケーン・チェスクラブのウェブサイトによれば、Macleodは1910年と1911年に電信対局でスポーケン・チェスクラブの1番ボード*13を務めたそうです。*14

  1965年、Macleodはスポケーンにて死去しています。*15

 

 4.「31敗した大会」の位置づけ

  Macleodのチェス人生を見ていくと、31敗を喫した第6回アメリカ・チェス・コングレスはMacleodの競技者人生の中で最大の晴れ舞台であったように思えます。現代で言えば、Tata Steel ChessやGRENKE Chess Classicのような世界のトップ選手が集まる「スーパー・トーナメント」に参加したようなものです。*16

  ミネソタ時代に大会で優勝したMacleodを紹介する記事は、こんな具合です。*17

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  カナダを代表して国際大会に出場して有名なマスターたちと戦い、イングランド王者Blackburneに勝ったことが記されています。*18記者はMacleodの経歴を語るにあたって、チェス・コングレスを達成の一つとして扱っています。

  残念ながら、チェス・コングレスについて語ったMacleod本人の言葉をみつけることはできなかったのですが、彼にとっても、チェス・コングレスは31敗した「屈辱」の記憶というよりも世界の偉大なマスターたちと競い合った「栄光」の記憶だったのではないでしょうか。

 

補:記録更新の可能性

  以下の二点の理由により、FIDEのレギュレーションで「Standard」に分類される長時間の試合を行う公式大会で「31敗」の記録が更新される可能性は低いのではなかと考えます。

a.大会の短縮

  31敗するには、まず31回試合をしなければなりません。第6回アメリカ・チェス・コングレスは20人のプレーヤーが2回戦総当たり合計38試合+指し直し局を戦いましたが、このような持ち時間の長い試合を多数戦う大規模大会は姿を消していきます。

  1953年にスイスのチューリヒで開かれたCandidate Tournament(挑戦者決定大会)が2回戦総当たり28ラウンド、その後の「インターゾーナル」と呼ばれる世界各地の上位者を集めて行う大会でも20ラウンド程度です。

  現代では、世界王者への挑戦者を決めるCandidates Tournamentですら2回戦総当たり14ラウンド、多くの大会は世界最高レベルの大会であっても多くて10ラウンド強です。長期間戦うクラブチームの対抗戦でも、私の知る範囲では30ラウンドに達する大会はありません。

  1局10分で済ませられるブリッツならともかく、片方のプレーヤーに最低90分+1手30秒加算を求められる「Standard」の公式戦で31戦以上を戦う大会は今後も復活しない可能性が高いように思います。

 

b.チェスの進化と引き分けの増加

  19世紀は「ロマンティック・チェス」と呼ばれる華やかなプレースタイルが全盛を迎えていました。駒の活動性を重視し、捨て駒を厭わずチェックメイトを目指して攻め倒す、そんなプレーが中心だったのです。自然、現代に比べて引き分けが少なく、勝ちか負けか決着が付くゲームが多くなります。

  Macleodがカナダで頭角を現した19世紀後半は、Steinitzが「ポジショナル・プレー」を提唱し「近代チェス」「科学的チェス」が始まったとされる時代です。派手な一撃ばかり狙うのではなく、一手ずつじっくりと駒の配置を調整し、自陣の弱点を消していく、そんなプレーが取り入れられるようになります。

  第6回アメリカ・チェス・コングレスの時点では、BlackburneやPollockらトッププレーヤーの中にも「ロマンティック・チェス」の気風を残したスタイルで戦うプレーヤーがいました。過渡期だったのですね。

  Steinitzの考えの優秀さは広く認められ、Steinitzを起点としてチェス理論が発達していきます。「ロマンティック・チェス」の時代に比べて無謀な捨て駒は減り、膠着状態になるゲームや、チェックメイトにならないまま駒が減った終盤を迎えるゲームが増えていきました。終盤の研究も進み、劣勢から「引き分けに持ち込む技術」も進歩しました。

  現代のトップレベルでは、半数以上が引き分けという大会も多くあります。

  プレーヤーのレベルによりますが、Macleodの時代に比べれば現代は引き分けるための技術が向上しているため、「31敗」のためのハードルは上がっていると言えるでしょう。

 

  ……技術の低いプレーヤーを集めて、記録更新のために公式戦を設定すれば記録更新は実現されるでしょうが、わざわざ31試合もの公式戦を行う時間、費用的コストを支払って酔狂な記録を作ろうとする人もいないと思います。*19

*1:実は19世紀には「公式戦」を認定する統括団体がなく、競技として体裁を整えて行う"serious game"(=のちの公式戦に相当)か"casual game"(=非公式戦に相当)かの区別は資料を見て後付けで行うしかない。第6回アメリカ・チェス・コングレスは記録の残り具合がよく、競技規則や参加者のレベルなどから判断して"serious game"として扱われている

*2:

http://chess.ca/node/262

*3:

http://collections.banq.qc.ca/retrieve/13483106#page=3

*4:

http://chess.ca/node/262

*5:

http://collections.banq.qc.ca/retrieve/13485776#page=4

*6:ロシア出身のため、本名はキリル文字。現代ではMikhail Chigorinとラテン文字転記されることが多い

*7:

https://archive.org/details/NYTimes-Mar-Apr-1889/page/n241

*8:当時「公認」の世界王者は歴史上Stenitzただ一人だったため、「世界の強豪たち」程度の意味と思われる。

*9:

http://collections.banq.qc.ca/retrieve/13533936#page=4

*10:

http://chess.ca/node/262

*11:

https://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn83045366/1901-08-19/ed-1/seq-9.pdf

*12:

http://chess.ca/node/262

*13:チェスで団体戦を行う際は、チーム内で「ボード順」を決める。1番ボードにはチーム最強のプレーヤーが配されることが多い。

*14:

https://spokanechessclub.org/club-info/history/

*15:

http://chess.ca/node/262

*16:「スーパー・トーナメント」についてはこちらの記事をどうぞ。

チェスの「プロ棋士」その3 チェスのプロが参加する棋戦の仕組み - dame_chess’s blog

*17:https://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn83045366/1901-08-19/ed-1/seq-9.pdf

*18:Sternitzとは戦っていないのでこの部分は記者のミス

*19:無気力試合を31回やるという手もなくはないんですが、そうして作った記録に価値があるかというと……