GM Igors Rausisによるチート行為(ソフト指し)について

話題のチート(ソフト指し)スキャンダルについて軽くまとめます。

 

1.ストラスブールで起こったこと

  2019年7月12日、フランスのストラスブールにおいて開催されていたチェス大会「ストラスブール・オープン」において、参加者の一人であるGM Igors Rausisが使用していたトイレ個室内から携帯電話が発見されました。携帯電話が発見された個室を使っていたのはRausisのみで、Rausis本人も携帯電話が自身のものであることを認める宣言書に署名しました。

  Rausisは携帯電話の発見以降、試合出場をとりやめています。

*1

  英国のタブロイド紙、Daily Mailはトイレ個室内で携帯電話を使用するRausisの写真を公開しました。

 

www.dailymail.co.uk

 2.GM Igors Rausisについて

2-1.プロフィール

  GM Igors Rausisは1961年生まれの58歳。長くラトビア籍のプレーヤーとして活動していましたが、現在はチェコ籍のプレーヤーです。FIDEレーティングは2019年7月期の最新レーティングで2686、世界ランクは53位でした。

  チェス指導者としても活動しており、コーチとしてバングラディシュ代表の指導に当たっていたこともあります。*2

  また、Rausisはアービター(審判)資格も保有しており、複数の大会でアービターを務めていました。*3

ratings.fide.com

f:id:dame_chess:20190713210333p:plain

2-2.50代でのレーティングの伸び

  最近、Rausisは年を取ってから急激にレーティングを伸ばしたプレーヤーとして注目されていました。Chessbaseの2019年7月期レーティングのリポート記事でも、名前が挙がっています。*4

  FIDEの公式サイトでは各プレーヤーのレーティングの推移がグラフ化されており、2003年以降のGM Rausisのレーティング推移を確認できます。*5

f:id:dame_chess:20190713212412p:plain

 2013年以降レーティングを伸ばしており、特に2019年に入ってから顕著な伸びを示していることがわかります。

  「2700Chess」というウェブサイト*6を使って作成した40代以上で世界ランクのトップ100入りしているプレーヤーのリストがこちらです。

f:id:dame_chess:20190713213545p:plain

  元世界王者のAnand、Kramnik、Topalov。タイトルマッチで挑戦者となったGelfand、Kamsky。スーパーGMとして、彼らと覇を競ったShirov、Ivanchuk、Adams。AlamsiやNisipeanu、Sadlerもキャリアハイでは世界トップ20、30で戦っていた往年のトップ選手です。

  Rausisの棋歴は、他の40代以上トップ100選手たちに比べると大きく劣ります。*7囲碁・将棋で言えば、かつてタイトル争いに加わっていた有力棋士の間に無名の棋士がポツンと一人いるような感覚です。*8

  しかもRausisの年齢(58歳)はトップ100プレーヤー中最高齢。その次に年長のGelfandから7歳も離れています。40歳を過ぎると加齢に伴って棋力を落としていくレーヤーが大半の中、キャリアハイを更新していくRausisが目を引いたのは自然なことでしょう。

 

3.称賛と疑惑、そして摘発へ

  Rausisの「活躍」に対して、称賛の声もありました。あるIMのツイートです。

 こちらはRedditから。www.reddit.com  一方、Rausisの特異なパフォーマンスに対し、疑念を抱いた人々もいました。

   Rausisのチート摘発後にFIDEフェアプレー委員会のYuri Garret氏がFacebookに投稿した文章によれば、FIDEフェアプレー委員会はRausisのチートを疑い、調査を行っていたそうです。

Fide anti-cheating procedures work best in team.

The Fair Play Commission has been closely following a player for months thank to Prof. Regan’s excellent statistical insights. Then we finally get a chance: a good arbiter does the right thing. He calls the Chairman of the Arbiters Commission for advice when he understands something is wrong in his tournament.*9

  文中に登場するRegan教授は、棋譜からチートの疑いの濃いプレーを検出する手法を研究しており、Regan教授によるチート検出プログラムはチェス・オリンピアードでも実際に使用されています。Rausisの調査にも、Regan教授の知見が用いられたようです。*10*11

  そして、ストラスブール・オープンのアービターの協力のもと、マークしていたプレーヤーRausisを「現行犯逮捕」したというわけです。

 

4.今後

  過去の不正行為者と同様に、FIDE倫理委員会での審議を経てRausisに何らかの処分が下されることになると思われます。過去のFIDEによる処分では、チート行為の事実が認定されたプレーヤーであっても有期の資格停止処分とされ、公式戦に復帰しています。*12

  今回のRausisのケースでFIDEから「永久追放」処分が下されるのかどうか、という点は注目されるでしょう。

  また、FIDEフェアプレー委員会のGarret氏はFacebookへの投稿の中で次のようにコメント。

The fight has just begun and we will pursue anyone who attempts at our integrity.

*13

 FIDE役員のGM Emil SutovuskyもFacebookでRausisの摘発は「始まりに過ぎない」と語っており*14、Rausisを皮切りに、FIDE主導のチート摘発が続いていく可能性も示唆されています。

 

補:400点差ルール

   FIDEが採用している現行のレーティング規定には、対戦者間に400点以上のレーティング差がある場合、400点ちょうどの差であると仮定してレーティング計算を行うという規則があります。

  GM John Nunnによれば、FIDEレート保有者が拡大し、大きくレートの離れた下位者と対戦したGMが「勝ってもレーティングが下がる」状況に直面するようになった1980年前後、「350点差ルール」としてレート計算の際に対戦相手のレートをかさ上げする規則が導入されたそうです。*15

  GM Rausisは、参加者のレートが低い大会に続けて参加し、「400点差ルール」の補正対象となるレートの低い相手との対戦で小数点以下のレーティングを積み上げていました。

  7月期のレーティング計算対象になったゲームの一部を見てみましょう。*16

f:id:dame_chess:20190714000701p:plain

対戦相手のレーティング欄に青いアスタリスクのついたゲームが「400点差ルール」の補正対象です。殆どのゲームが対象になっています。

  「400点差ルール」も今後見直しの対象になるかもしれません。

 

*1:ここまで

GM Igors Rausis (58) Under Investigation Of Cheating - Chess.com

を情報源としました。

*2:

GM Igors Rausis, rated 2686, caught cheating with a mobile phone - ChessBase India

*3:

Rausis, Igors FIDE Arbiter History - Chief and Deputy Arbiters in Events

*4:

July ratings: Goryachkina vaults to world #3 | ChessBase

*5:

https://ratings.fide.com/id.phtml?event=11600098

*6:

Live Chess Ratings - 2700chess.com

*7:2013年以降のレーティング上昇を除くと、Rausisのキャリアハイは1993年7月期に記録した世界ランク85位。olimpbaseより FIDE rating history :: Rausis, Igor

*8:なお、AnandやSvidler、Topalovは今もFIDE GPに参戦して挑戦権争いに加わっています。

*9:

Yuri Garrett - Fide anti-cheating procedures work best in... | Facebook

*10:

Anti-Cheating

*11:Regan教授のチート検出手法については、ブログ「コンピュータ将棋基礎情報研究所」が日本語で詳しく紹介しています。

チェスの不正解析 1:Regan教授曰く : コンピュータ将棋基礎情報研究所

*12:第39回チェス・オリンピアードでチート行為を行ったフランス代表選手、GM Sebastian Feller。処分が明けた後は公式戦に復帰しており、今年5月のフランスリーグにも参加している。

https://ratings.fide.com/individual_calculations.phtml?idnumber=634654&rating_period=2019-06-01

*13:

Yuri Garrett - Fide anti-cheating procedures work best in... | Facebook

*14:

https://chess24.com/en/read/news/gm-igors-rausis-allegedly-caught-cheating Facebook投稿の英訳

*15:

https://en.chessbase.com/post/elo-oddities-the-tortoise-and-the-hare GM Li Chaoがスリランカの大会に参加した際、このルールが問題になった。なお、Li Chaoはスリランカの大会に参加した時点でも十分実績のある世界トップレベルのプレーヤーであり、レート稼ぎのために小規模大会を転戦していたわけではない

*16:

https://ratings.fide.com/individual_calculations.phtml?idnumber=11600098&rating_period=2019-07-01

チェスのプロ棋士 その6 プロ・チェスプレーヤーと引退

  昨年、将棋の加藤一二三九段が長い現役生活に幕を下ろしました。加藤九段の引退は順位戦C級2組からの降格と、竜王戦の敗退により決定したもので、以降日本将棋連盟が主催するプロ棋戦への出場資格は失われます。なお、加藤九段は日本将棋連盟の正会員、棋士の地位を保持するため、アマチュアプレーヤーとして活動することもありません。

  では、そもそもプロとアマの境界すら曖昧なチェス界の「引退」制度はどうなっているのでしょうか。

 

1.チェス競技者に「引退」はない!?

  チェスの世界はプロとアマの区分が曖昧です。一般の競技者の中で、結果的にチェスで金を稼げている人がプロです。チェスで飯を食っていようがいまいが、競技者としての扱いは同じです。つまり、過去にどんな実績があっても、どれほど年を取っても、力が落ちても、自分の意思で試合に出続ける限りチェス競技者としては現役なのです。

  ですので、「生涯現役」を貫くマスターも多くいます。かつて世界選手権タイトルマッチを戦ったVictor Korchnoiは老いてなお現役プレーヤーとして戦い続けました。脳梗塞で倒れたあとの復帰戦では、車椅子姿で対局会場に現れました。

chess-news.ru  GM Vitaly Tseshkovsky*1やIM Emory Tate*2のように、大会中に倒れてそのまま帰らぬ人となるマスターもいます。

 

2.競技プロからチェスコーチ、トレーナーへの転身

  最もポピュラーな選択肢が、チェスの指導者に転身するルートです。身体スポーツでもよくありますよね。

  そもそも、職業的なチェスプレーヤーの中でも賞金、大会の出場料、スポンサー料といった「競技者としてプレーそのものに対する報酬」で食べていけるプレーヤーは一握りのエリート層だけ。大抵の「チェスのプロ」たちは競技生活の傍らコーチングや著述で糧を得ています。加齢による体力、棋力の低下に伴って、競技を中心にしているプロたちも少しずつ指導者業に軸足を移していくといった感じですかね。

  パラグアイGM Axel BachmannやオーストラリアのGM Max Illingworthのようにはっきりした「競技チェス引退宣言」を出すプレーヤーもいますが*3、競技生活を続けるマスターのほうが多数派ではないかと思います。*4

  現役時代から、「引退後」を見越してチェス学校を開くGMもいます。中国の四川省成都では、オリンピアード優勝メンバーのGM李超GM王玥がチェス学校を営んでいます。

www.cygjxq.com

f:id:dame_chess:20190702230012p:plain

2014年に立ち上げ、今では市内五か所に教室を構えているそうです。

3.別の道を歩む者たち

  チェスのプロには地位や収入の保障がありません。中々に不安定な職業ですし、苛烈な競争に対して稼ぎが良いというわけでもありません。*5ですので、グランドマスター級の棋力を持っていても若いうちに競技中心の生活にピリオドを打ち、別の分野で職を得るプレーヤーが沢山います。*6

  有名どころでは、かつてチェスの全米選手権で2位に入った経済学者のKenneth Rogoff氏、95年のタイトルマッチで後の世界王者Anandの研究パートナーを務め、その後金融界に進んだPatrick Wolff氏の名前が挙げられるでしょうか。

  なお、別の職業を持っていてもチェス競技者として活動を続けることはできます。GM級の棋力を持つチェスの世界の「セミプロ」、「アマ強豪」たちについてはこちらの記事で扱いました。

dame-chess.hatenablog.com

4.いつ戻ってきてもいい

  一度「引退」を宣言しても、何年ブランクがあっても、戻って来たければいつでも復帰できます。競技者としてプレーする意思さえあれば、いつでもチェス競技者に戻ることができます。

  2017年には、2005年に引退を宣言していたKasparovが5日間限定の「現役復帰」を果たし、注目されました。

www.afpbb.com   競技生活をやめて司書になっていたGM James Tarjanが30年の時を経て復帰し、復帰2年後に元世界王者のKramnikに勝利、という出来事もありましたね。

en.chessbase.com

  世界トップレベルのプレーヤーだったGM Gata Kamskyが、「医者になる」といって現役を引退し、再びプロに戻ったこともあります。

dame-chess.hatenablog.com  競技チェス界の扉は、いつでも大きく開け放たれているのです!

 

*1:

http://chess-news.ru/en/node/5385

*2:

https://www.chess.com/news/view/emory-tate-1958-2015-7615

*3:Bachmannの引退宣言

http://www.chessdom.com/gm-axel-bachmann-retires-as-a-professional-chess-player/

 Illingworthの引退宣言

https://www.chess.com/blog/Illingworth/announcing-my-retirement-from-competitive-chess

*4:統計がないのでわからない。

*5:少なくとも、サッカーやバスケットボールなど人気のあるフィジカル・スポーツのトップレベルと比べて

*6:先進国では、そうした非プロのプレーヤーのほうが多数派かもしれません

チェスのグランドマスターたちもゲーマーみたいにスポンサーロゴ入りの服を着るし、なんならもっとラフな恰好で試合をしますよ、というお話

  こんなツイートが話題になっています。

   このツイートに対する反応もあります。

   反応を読んでいくと、どうも元ツイートの方も反応している方々も「チェスの人」はスポンサーロゴのないフォーマルな恰好で試合に出るのが標準だと思っているようなんですね。

……おかしい。

チェスのグランドマスターGM)たちはもっと個性的な服装で試合をしているんですよ!?ということで、チェスGMたちのお洋服について語っていこうと思います。

 

1.チェスGMとスポンサーロゴ

  チェスのトーナメント・プロはプロ団体からお給料をもらっているわけではなく、それぞれ単独で活動する一匹狼です。ですので、個人単位でスポンサーと契約して活動費を調達するのはごく普通のことです。*1

  スポンサーをつけているプレーヤーがスポンサーロゴ入りの服を着て試合をするのも日常です。例えば現チェス世界王者のMagnus Carlsen

IMG_4787-002

 袖と右胸にロゴが入っていますね。

世界トップ10に定着しているオランダのGM Anish Giri。

D8A_3357

 右胸の「optivar」がGiriの個人スポンサーです。

もっとラフな服装の例として、12歳でGMになった天才少年Praggnanandhaa。

D8A_3244

 「RAMCO」がスポンサーロゴです。

 

2.チェスGMとユニフォーム(クラブ編)

  チェスにも団体戦がありまして、団体戦に参加する時はチェスのGMたちもお揃いのユニフォームで試合をしたりします。

  欧州クラブ杯の様子です。

 
 
 
この投稿をInstagramで見る

Niki Rigaさん(@niki.riga)がシェアした投稿 -

 向かって左から、世界王者Magnus CarlsenイングランドGM David Howell、スウェーデンGM Nils Grandeliusです。いずれも世界トップ100に入る一流のグランドマスターです。

  もう一例、チェスのドイツ一部リーグブンデスリーガ)で優勝したSG Solingenチームを写した一枚。一人着てない人*2がいますが、置いときましょう。

DSC04615

クラブチームの例はこんなものです。

3.チェスGMとユニフォーム(国家代表編)

  チェス選手も国を代表して戦うことがあり、そんなときには代表チームのユニフォームを着て戦います。

  2017年、World Cupという世界大会に参加したポーランド代表のメンバーです。

IMG_1311-002

 左胸についているのがポーランド・チェス協会のエンブレム、右胸についているのが代表チームのスポンサーロゴです。

   「チェスはスポーツ」という考え方に影響されてか、スポーツウェア型のユニフォームを採用する例も多くあります。2017年の世界ユース・オリンピアードで対戦したイラン代表チームとインド代表チームの様子です。*3

www.youtube.comただのジャージみたいなユニフォームですね。

4.チェスGMとTシャツ

  チェスの世界はドレスコードのゆるい大会が多いためラフな格好で登場するGMもいます。Tシャツもありです。

  Saint Louis Rapid & Blitzという早指しの大会に登場したフランス最強のGM、Maxime Vachier-Lagraveの服装がこちらです。

LOC06067

 ただのTシャツですね。

  アニメTシャツを着るGMもいます。

dame-chess.hatenablog.com  普段は服装に拘るタイプのグランドマスターが突如ラフなTシャツスタイルを採用し、話題を呼んだこともあります。2017年のChess World Cup三回戦、Matlakovとのプレーオフに猫Tシャツで登場したLevon Aronianです。

5 Levon Aronian Final8-001

 本人曰く、大会開催地に持ってきた服の量が少なく、猫Tシャツ含め少ない選択肢から選ばざるを得なかったのだそうです。*4

 

4.服装と、チェス文化

  震源のツイートに立ち返って、チェス界の服装とチェスの文化、カルチャーについてざっくりと語ってみようかと思います。

  ここまで見てきたように、チェスの世界はGMであってもカッチリとしたフォーマルな恰好をしない例が少なくありません。服装規定を設けている大会はありますが、非常にゆるい規定になっているの実情です。*5つまり「服なんて割とどうでもいい」というのがチェス界の服装に対する姿勢なのです。

  チェスの世界では、年齢、性別、人種、民族、棋力を問わず、すべてのプレーヤーが「FIDEレーティング」という同じものさしで評価されます。盤上で繰り広げられるチェスという競技、ゲームこそが最も重要で、他のものは夾雑物にすぎない、そんな文化が服装への態度からにじみ出ている……とはいえないでしょうか。

*1:尤も、まとまった額のスポンサーマネーを得られるプレーヤーはほんの一握りですが。

*2:ハンガリーのエース、GM Richard Rapport

*3:16歳以下の大会ながら、Praggnanandhaa、Nihal Sarin、Alireza Firouzjaという将来世界王者の座を争うと目されるGM称号保有者たちが写っています。

*4:

https://en.chessbase.com/post/fide-world-cup-2017-aronian-and-ivanchuk-set-up-round-five-clash

*5:レベルの高い大会で、ドレスコードがあっても、要求されるのはビジネスカジュアル程度のフォーマルさですね

将棋で記録自動化の試みが始まるらしいので、便乗してチェスの記録係事情と自動記録を語ってみる

  将棋の棋譜を自動で記録するシステムが開発されたそうです。記録係不足の問題は以前から指摘されていましたが、自動化という形で解決が図られるようですね。

jp.ricoh.com

www3.nhk.or.jp

  ということで、便乗してチェスの記録事情について語っていきたいと思います。

 

1.記録係などいない!

  チェスに記録係はいません。チェスでは、プレーヤーが自分で記録を取ります。これは公式の競技規則「Laws of Chess」で決まっています。記録について定めているのは第8条「The recording of the moves」で、最初の項目はこうなっています。

8.1.1

In the course of play each player is required to record his own moves and those of his opponent in the correct manner, move after move, as clearly and legibly as possible, in the algebraic notation (Appendix C), on the ‘scoresheet’ prescribed for the competition.

これは初めて公式戦に出場するアマチュアプレーヤーも、全世界のチェスプレーヤーの頂点に君臨する世界王者でも同じです。全てのプレーヤーにとって、棋譜の記録は義務です。

実際に世界王者が棋譜を取りながらプレーしている様子です。左のジャケットを着たプレーヤーが、現チェス世界王者Magnus Carlsenです。

www.youtube.com

  早指しの場合や持ち時間が少なくなった場合には、アービター(審判員)及び補助者、あるいは電気的手段によって記録が行われます。これも競技規則に規定があります。*1

   一部例外はありますが「自分で記録を取ることができるのならば、自分で記録を取りなさい」というのがチェスの世界の基本方針です。

 

2.自動記録装置

  流石に、チェスでも早指しでは自分で記録を取ることは求められません。このようなときに威力を発揮するのが電子チェスボードです。電子チェスボードの盤駒には電子チップが埋め込まれ、全自動で指し手を記録していきます。

  指し手は「PGN」と呼ばれる世界共通のファイル形式で保存され、盤面の変化は棋譜中継サイトや映像中継の局面図に即時反映されます。

  実際の「世界ブリッツ」の中継画面です。

www.youtube.com  チェスの世界ではDGT社の製品「e-Board」シリーズが普及しており、大きな大会で使用される電子ボードは概ねDGT社の製品になっています。同社のチェスクロックと連動できる点も大きいですね。

 

3.画像認識による記録

  リコー社が将棋連盟のために開発したのは電子ボードではなく、画像認識による記録システムです。

  実は、チェスでも画像認識による記録システムが開発されています。2015年、「Chess Vision」という会社がスマートフォンのカメラの映像から盤面を認識して棋譜を取るアプリケーションを開発し、売り込もうとしていました。

www.youtube.comそして、実際にACP Mastersというトップクラスのプレーヤーが参加する大会で使用されました。

  しかし、この「Chess Vision」は全く普及せず、現在は公式サイト*2

も消滅しています。先行して普及した電子ボードの壁は厚かったということなのでしょうか。

 

4.秒読みや時間切れの判定

  記録係の無人化を目指すという一方に対し、将棋ファンからは記録係が行っていた「秒読み」や、着手完了、時間切れの判定に影響が出るのではないか、という声も出ていました。将棋の記録係は棋譜の記録だけでなくタイムキーパーの役目も担っていますからね。

  元々記録係がいないチェスの世界では、プレーヤーが自分で時計を止めます。時計を止めた瞬間が着手完了のときです。初めて試合をするマチュアから世界王者まで同じです。

  全部競技規則に書いてあります。「Laws of Chess」第6条、「The chessclock」を読みましょう。

6.2.1

During the game each player, having made his move on the chessboard, shall stop his own clock and start his opponent’s clock (that is to say, he shall press his clock). This “completes” the move.

  もちろん、秒読みもありません。記録係もタイムキーパーもいませんからね。秒読みがないため、持ち時間のルールを勘違いしていた世界王者がうっかり時間切れで負けてしまったこともあります。

www.chess.comこちらは、実際に大会で元世界王者が時間切れ負けした瞬間です。9分20秒あたりからご覧ください。

www.youtube.com右の眼鏡のプレーヤーが元世界王者Vladimir Kramnik。対戦相手のひげ面のプレーヤー、Hikaru Nakamuraが時計を指して、時間切れを指摘します。その後、スーツ姿の人物が呼ばれます。これがおそらくアービターです。

   

  なお、時計の故障などイレギュラーな自体や異議申し立てはアービターが対処します。

*1:持ち時間が少なくなった場合の記録に関する規定はLaws of Chess 8.4から8.5.3、早指しの場合はA.2

*2:

http://www.chessvi.com/

立てなくても座れなくてもチェスはできるし、FIDEマスターにだってなれるのだという話

  ポーランドにLukasz Nowakというチェスプレーヤーがいます。

1.ワルシャワのチェスプレーヤー

  Lukasz Nowakは1997年生まれ、ポーランド籍です。祖父に手ほどきを受けてチェスを始め、5年後初めて大会に出場しました。ナイドルフ国際チェス祭*1です*2

   初めての大会でトロフィーとメダルを貰ったNowak少年は、サッカークラブである「ポロニア・ワルシャワ」傘下のチェスクラブでコーチの指導を受けることになりました。*3

  成長したNowakはレーティング2300を突破し、FIDEマスターの称号を取得します。2017年には世界ジュニア選手権*4に参加。前半は1勝4敗と崩れましたが、その立て直して11戦中6ポイントを獲得しました。*5

   2019年6月現在、Nowakのレーティングは2267。*6

IMノーム大会に参加するなど精力的な活動を続けています。*7

2.筋疾患

  FM Lukasz Nowakは筋疾患のため、立って歩くことも椅子に座ることもできません。試合風景はこんな具合です。

   国際チェス連盟の定めた公式ルールでは、競技上必要な動作が困難な場合、プレーヤーに介助者をつけることが認められています。*8

着手に関する条項はこちら。

4.9

If a player is unable to move the pieces, an assistant, who shall be acceptable to the arbiter, may be provided by the player to perform this operation.

 時計の操作についてはこの条文。

6.2.6

If a player is unable to use the clock, an assistant, who must be acceptable to the arbiter, may be provided by the player to perform this operation. His clock shall be adjusted by the arbiter in an equitable way. This adjustment of the clock shall not apply to the clock of a player with a disability.

記録についての同様の項目があります。

 8.1.6

If a player is unable to keep score, an assistant, who must be acceptable to the arbiter, may be provided by the player to write the moves. His clock shall be adjusted by the arbiter in an equitable way. This adjustment of the clock shall not apply to a player with a disability.

FM Nowakが参加した障碍者チェスの世界大会のレポートにこの大会でプレーするNowakの写真がありますが、記録用紙を前に置いて同じテーブルに座っている介助者らしき方が写っています。*9

かくして、FM Lukasz Nowakら障碍を持つプレーヤーも合理的な配慮のもと、一般の一プレーヤーとして競技会に参加することが出来るのです。

チェスの「プロ棋士」その4 グランドマスター王皓(Wang Hao)の2018年シーズン

  プロ制度がないチェスの世界で、トーナメント・プロたちはどのような選手生活を送っているのでしょうか。一流のトーナメント・プロの例として、中国のグランドマスター、王皓(Wang Hao)の2018年の戦いぶりを見ていきたいと思います。
  王皓は1987年生まれ。2018年1月期のレーティングは2711、世界ランク37位です。そして、冴えカノジャージを着て戦います。

dame-chess.hatenablog.com

王皓の2018年の参加大会を一覧にしてまとめた表がこちらです。

 

大会名 参加者数 シード順 持ち時間 形式 ゲーム数 Win Draw Lose TPR 順位 開催地
Czech Extraliga(Rd.5,6)     Classical 団体 2 1 1 0 2693   チェコ
Gibraltar Masters 276 10 Classical オープン 9 5 4 1 2710 13 英領ジブラルタル
Czech Extraliga(Rd.7,8)     Classical 団体 2 1 1 0 2693   チェコ
HD Bank 133 2 Classical オープン 9 5 3 1 2646 5 ベトナム
GRENKE Open A 787 3 Classical オープン 9 5 4 0   15 ドイツ
Sharjah Masters 118 1 Classical オープン 9 6 2 1 2774 3 UAE
Longtou Cup 79 1 Classical オープン 9 6 3 0 2703 1 中国
China Rapid 28 1 Rapid 招待 9 6 1 2 2694 3 中国
China Blitz 28 3 Blitz 招待 9 6 2 1 2730 2 中国
Abu Dhabi Chess 158 4 Classical オープン 9 5 3 1 2726 6 UAE
Malaysian Open 153 1 Classical オープン 9 7 2 0 2788 1 マレーシア
European Club Cup     Classical 団体 6 2 3 1 2652   ギリシャ
Chess.com Isle of Man 165 12 Classical オープン 9 4 5 0 2820 6 イギリス
Asian Continental 64 1 Classical オープン 9 4 3 2 2566 17 フィリピン
World Rapid 206 7 Rapid オープン 15 5 9 1 2772 19 ロシア
World Blitz 202 10 Blitz オープン 21 8 6 7 2669 69 ロシア

 

・「シード順」は大会参加選手をレーティング順に並べた際、上から数えた順位です。
・持ち時間の「Classical」は長時間のゲーム、「Rapid」、「Blitz」は早指しにあたります。国際チェス連盟(FIDE)はこの三種類のレーティングを別々に計算しています。
・エントリー資格が限定されている大会も「オープン」として扱いました。
・「TPR」はトーナメント・パフォーマンス・レーティングの略で、チェス選手の大会成績を示す指標です。単純な勝率と異なり、パフォーマンス・レーティングは勝敗に加えて対戦相手の平均レートも含めて計算されます。
・「TPR」が2500であれば、「レーティング2500のプレーヤーに期待される程度の成績であった」という意味になります。

・「TPR」の数値は全てChessresultsに記載されたもので、Chessresultsに記載がなかったものについては略しています。*1
・「順位」はイベント終了時の個人順位です。クラブ戦は表記しません。

 

 

1.賞金稼ぎ

  王皓はオープン大会を中心に活動しています。オープン大会の場合、王皓のような世界有数のプレーヤーであっても競技面での特別待遇はありません。集まった参加者の一人として、優勝を争うことになります。

  それなりの金額の賞金が提供され、一部のマスターに対する招待料が出るような格の高いオープン大会であれば、参加者が百人を超えることはざらです。百人を超える選手と横一線で戦い、賞金獲得を目指す。それがチェスのトーナメント・プロとしての王皓の日常です。

 

2.外国人傭兵

  表で「団体」に分類されている大会はともにクラブチームの対抗戦です。Czech Extraligaはチェコ一部リーグ、European Club Cupはクラブの欧州選手権です。王皓は中国に拠点を置く中国籍プレーヤーなので、どちらの大会でもチームにとっては「外国人助っ人」です。

  王皓は結果を求められる「傭兵」でもあるのです。

 

3.高いパフォーマンス

3-1.TPR2700+

  2018年の王皓のレーティングはFIDEのスタンダードで2700台前半なので、Classicalの大会でTPR2700を超えてくれば概ね「期待されるレーティング並みの成績であった」と言えるでしょうか。

  王皓はGibraltar Masters、Sharjah Masters、Longtou Cup、Abu Dhabi、Malaysian Open、Chess.com Isle of Manと参加したオープン大会7つでTPR2700+を記録しています。一流プレーヤーとして、相応しい成績を残していますね。

3-2.GMノーム水準

  チェスの世界でグランドマスターの称号得るためには、大会で好成績を残してグランドマスター・ノーム(GMノーム)を取得する必要があります。取得の基準の一つが「TPRで2650を超える」というものなのですが、王皓は当たり前のようにノーム水準を超えて来ます。

  GM取得を目指すプレーヤーの多くは、ノーム取得に苦労します。しかし、王皓レベルのプレーヤーともなるとGMノーム基準のクリアは「よくあること」でしかないのです。

 

4.世界を旅する

  2018年の王皓は海外9か国を転戦しました。近年の中国はプロリーグとして甲級リーグが整備され、賞金の高い国内オープン大会も増えつつあるので、国家代表入りしていない現代中国のプレーヤーとしては多めでしょうか。

   チェスを始めたころの王皓は、チェスの先生から「良いチェス選手は外国を旅行できるぞ」と言われたそうです。*2

世界的プレーヤーに成長した現在、先生の言葉通り世界を飛び回る生活を送っています。

 

5.沢山の公式戦

  王皓は2018年の1年間でClassicalの公式戦91ゲームをこなしました。早指しのRapidは24ゲーム、Blitzは30ゲームです。単純なゲーム数で比べると、将棋のプロ棋士の年間対局数に比べてかなり多くなっています。*3  

  将棋と違って敗退するとゲーム数が減るノックアウト方式の大会がなく、基本的にスイス式で一大会当たり10ゲーム弱が確定している点が大きく影響したのでしょうね。

 

まとめ

  チェスの腕一本で世界を旅する賞金稼ぎにして傭兵。一流の競技チェス選手のそんな姿が浮かび上がってきますね。

  ただ、旅も愉快なことばかりではありません。一つのゲームで賞金のケタが変わり、チェス選手との命とも言えるレートが増減するストレスにも晒されます。自由気ままではありますが、不安定で将来の見通しは立ちません。

  ボヘミアンな暮らしと、厳しい勝負の世界を「楽しい」と思える人こそ「プロの競技チェス選手」に向いていると言えそうです。

*1:対戦相手のレーティングと獲得ポイントがわかれば計算できるけど、手計算は面倒なのでサボった。ごめんなさい

*2:

https://en.chessbase.com/post/wang-hao-profile-of-a-chess-prodigy-1-2

*3:

https://www.shogi.or.jp/game/record/archives/2018_ranking.html プロ将棋は50局でほぼトップ10水準。ただ、チェスのオープン大会の序盤はかなりレートの低い相手との対戦になるし、大会終盤は合意の上での早期ドローも発生しがちなので単純比較はできない。

チェスのトッププレーヤーと高等教育

  囲碁の井山五冠は中学卒業後、学校には通わず囲碁一本で生活しています。一方、一力遼八段は大学に進学し、学生生活を送りながらプロ棋士として戦っています。チェスのトップ選手の進学事情も、バラエティに富んでいます。

 

2.進学しないGMたち

  将来世界のトップレベルで争うであろう有望なジュニアプレーヤーたちは、年間100戦近い公式戦をこなして実戦経験を積み、レーティングを上げていきます。海外遠征もあります。自然、学校に通って勉強することは難しくなってきます

  また、有望なジュニアプレーヤーたちは10代でグランドマスターの称号を獲得し、更にレートを上げていきます。スポンサーがつき、多面指しイベントで報酬を受け取り、大会から招待され、勝って賞金を稼ぎます。彼らは10代で既にプロ選手なのです。

  普通に学業に取り組むことが難しく、ある程度プロとしてやっていける目途が立つプレーヤーたちは、進学せずにチェス一本に絞ることが珍しくありません。

  現世界王者のMagnus Carlsen、世界ランク2位のFabiano Caruana中等教育を途中離脱してチェス一本に絞っています。

  GM Nigel Short*1は、16歳で教育課程から離脱した時のことを振り返って、こう語っています。

I never thought of university for a moment. As a chess player, it would have been a waste of time.*2

  「大学なんて時間の無駄」これも一つの考え方ですね。

 

2.体育大学で学位を取る

  中東欧を中心とした旧共産圏では、チェスがスポーツの一種目として定着しており、体育大学がアスリートとしてチェスプレーヤーを受け入れています。

  現代のトッププレーヤーでは、アルメニア体育大学を卒業したLevon Aronian*3北京体育大学に進学している余泱漪(Yu Yangyi)*4、リヴィフ体育大学を卒業したMzychuk姉妹*5あたりがよく知られているところでしょうか。

 

3.チェスを使って一般大学に進学する

   アメリでは、一部の大学がチェス奨学生を募集しています。中でも、GM Susan Polgarが運営するWebster大学の「SPICE」や、テキサス工科大ダラス校の奨学生コースが有名です。

www.webster.edu

www.depts.ttu.edu

  各大学は様々な国からチェス奨学生を受け入れており、チェスを使ってアメリカの大学で学ぶ機会を得ることができるのです。例えばベトナム第1位のGM Le Quan LiemはSPICEの一員としてWebster大学に入り、2018年に卒業しました。

  中国では、スポーツの成績優秀者が推薦入学のような形で名門大学に進める制度があります。この制度を利用し、現世界ランク3位の丁立人(Ding Liren)は北京大学*6、現ジュニア世界ランク1位の韦奕(Wei Yi)は清華大学*7に進学しています。*8

 

4.普通に一般大学へ進学する

  特にチェスの実績を利用することなく、一般の学生に混じって大学へ進むトップレベルのプレーヤーもいます。現代でよく知られているのは、スイス連邦工科大学ローザンヌ校の学士課程で数学を専攻したMaxime Vachier- Lagrave*9チェコの名門カレル大学で哲学を専攻したDavid Navara*10あたりでしょうか。

 

5.チェス選手業の不安定さと進学

  チェスには、地位や収入を保証してくれる「プロ制度」がありません。一般のプレーヤーの海の中で、「チェスで稼いでいる例外的な存在」が「プロ」ということになります。競争は激しく、加齢による衰えからも逃れられません。制度的な保障がないため、プロのチェスプレーヤーは、トッププレーヤーであっても非常に不安定な状況に置かれます。

  チェス以外の選択肢を確保しておくために、進学するのは自然な選択と言えるでしょう。イングランドLuke Mcshane*11のように、プロとしてやっていける実力を持っていても一般の大学に進み、チェスと異なる業界へ就職するプレーヤーもいます。

*1:1993年の世界選手権タイトルマッチでKasparovに挑戦した往年のトッププレーヤー。50歳を過ぎた現在はFIDE副会長職の傍ら、レート2600を超える棋力を保ってプレーヤーとしても活動を続けている

*2:

https://www.independent.co.uk/life-style/interview-even-madonna-cant-beat-nigel-nigel-short-is-just-huge-in-iceland-yet-here-chess-colleagues-1453646.html

*3:アルメニア1位のGM。世界王者への挑戦者を決める大会に何度も出場している

*4:中国第2位のGM

*5:姉妹揃って女子チェス界のトッププレーヤー

*6:

https://en.chessbase.com/post/who-is-ding-liren

*7:参考記事:

http://www.xinhuanet.com/politics/2019-03/12/c_1210080130.htm

*8:丁立人は法学、韦奕は経済・経営を専攻

*9:フランス第1位のプレーヤー。世界ランクでトップ10を維持している

*10:チェコ第1位のプレーヤー。長く2700+のレーティングを保っている

*11:世界ユース10歳以下の部優勝、16歳でGM称号獲得。オクスフォード大学ユニバーシティ・カレッジ卒、金融界へ進む